内製開発組織を立ち上げ、東急が目指す未来とは?
セッションの冒頭、モデレーターを務めた野口慎吾氏が、東急の事業とURBAN HACKSの成り立ちについて紹介した。
東急は2026年9月2日に105周年を迎える地域コングロマリット企業(巨大複合企業)だ。電車やバスを手がける交通領域、不動産売買・賃貸の不動産領域、百貨店やスーパーなどの生活サービス領域、そしてホテル・リゾート領域と、200社を超えるグループ会社を束ねる。東急線の利用者は2025年度実績で年間約11.2億人に上り、沿線エリアには556万人(住民基本台帳2025年1月1日現在)もの生活者が暮らす。首都圏(1都3県)全体の人口集積の約15%が集まるこの巨大なリアルアセット(実物資産)は会社の強みである一方、その大きさは顧客視点で事業横断のサービスを作る際のハードルにもなっていた。
これまで、東急のシステム開発はリアルに特化して事業ごとに外部ベンダーに委託して構築されてきたものが多く、デジタル化が進む世の中にあって、必ずしも顧客目線の設計になっていないという課題認識があった。だが「CaaS(City as a Service)構想」という、東急が掲げる長期経営構想の実現には、リアルとデジタルをつなぐアジャイルな内製開発組織が不可欠であると判断し、2021年7月にURBAN HACKSが立ち上がる。ペーパーレス化などを進める一般的な企業内のDX組織とは一線を画しており、東急グループが持つさまざまなリアルな接点をもとに、徹底した顧客視点でプロダクトを改善し、事業価値に変えていくことを使命とした組織だ。
同社はCaaS構想の実現までを5つのフェーズに分け、URBAN HACKSではフェーズ1から3を「点・線・面」と定義。個々のプロダクト(点)を磨き込み、それぞれを連携(線)させ、東急グループを横断する「CX向けデジタル共通基盤」の完成(面)を目指している。
今回のパネリスト3名がそれぞれ担当するのが、デジタルチケットサービス「Q SKIP(キュースキップ)」、渋谷で働くオフィスワーカー向けのベネフィットアプリ「Shibuya TOQ Pass(シブヤ トウキュウ パス)」、そしてグループ共通ID「TOKYU ID」の3つだ。
Q SKIPは東急線全線・東急バス・みなとみらい線で使える乗車券や施設の利用券などの「地域周遊乗車券」をQRコードのチケットとして購入可能なサービスで、Shibuya TOQ Passは渋谷スクランブルスクエアや渋谷ヒカリエといった東急のオフィスビルに入居する企業の従業員に、優待やクーポン、渋谷のイベント情報など、働く毎日をより便利で豊かにするベネフィットを届けるアプリだ。そして、TOKYU IDはグループ全体のサービスを1つのアカウントで使えるようにする共通IDとなる。
3日でプロトタイプを作ったからこそ見えた、改札UXの課題
3つのプロダクトの概要を押さえたところで、野口氏はディスカッションの軸となる3つのテーマを提示した。「現場に出る」「事業に返す(還元する)」「体験をつなぐ」というテーマに沿って、各プロダクトのリアルな開発体験が語られた。
まず、Q SKIPのバックエンド領域を担当する中川武憲氏は、同プロダクトならではの制約から話し始めた。
Q SKIPには、外部ベンダーが担当する改札システムの開発と、URBAN HACKSが担当するアジャイルなアプリ開発が並走するという特有の制約がある。PASMOやSuicaなどの既存サービスも通す改札機に自社サービスを追加するため、すでにある機能へ影響を及ぼさない「守りの役割」は外部ベンダーが担い、ユーザー体験における「攻めの改善」をURBAN HACKSが担当するという役割分担だ。
この役割分担が真価を発揮したのが、複数名でQ SKIPを利用するケースについて検証した際のエピソードだ。代表者1人がスマートフォンで家族や友人の分のチケットも購入し、一緒に改札を通る機能を実装するにあたり、東急電鉄が持つ自動改札機などの駅務機器が設置された試験場で、本番に近いステージング環境を使った検証を行った。
すると、「改札機自体は動くものの、ユーザーの画面にリアルタイムで利用状況が反映されないため、誰のチケットを使ったかがわかりづらい」という課題が、現地検証で初めて明らかになった。当初は改札機の動作確認だけを行う前提でスケジュールを設定していたものの、中川氏らのチームがアプリのUXの確認のためプロトタイプを3日で作り、スケジュール外の検証が実現したことで問題を明らかにすることができた。URBAN HACKSのアジャイルの体制がなければ、本番の駅に設置した後に初めて気づくという事態になっていた可能性がある。中川氏は「我々がUXの確認のため、現場に入ったからこそ問題に気づけました」と振り返る。
さらにQ SKIPチームでは年間100回を超えるリリースを重ねながら、エンジニア自身が覆面で駅などの施設に足を運び、ユーザー視点での気づきをプロダクトへ直接返していく実践を続けている。「実際に自分たちで使って得たフィードバックを、スピード感を持ってプロダクトに反映しています」と中川氏は語る。
リリースはゴールではない! 検索データとAIが回す改善サイクル
Shibuya TOQ Passのバックエンド領域を担当する星野翔氏は、リリース後のデータ活用について語った。
Shibuya TOQ Passのチームでは、ユーザーが実際にアプリ内でどのようなワードで検索しているかのデータを観察し、その結果、飲食のジャンルにおいて「蕎麦」のニーズが高いことが見えてきた。星野氏はこの結果をチームに伝え、結果として掲載店舗のラインナップ強化につながった。星野氏は「開発中に『蕎麦の需要が高い』という発想はなかなか出てきません。データを見たからこそチームとしてこうした気づきを得ることができました」と振り返る。
データ分析にはAIも活用し始めている。ウィークリーアクティブユーザー(WAU)の改善のため、Googleの「Data Studio」(旧:Looker Studio)で可視化したアナリティクスデータにデータマスキングしたユーザーアンケートを加えてAIに読み込ませ、仮説を生成させている。もちろん、AIが正しいとは限らない。例えば「ブックマーク機能の利用率を高めればリテンション率が上がる」という仮説が生成されたこともあったが、実際には「よく優待を使う人がブックマークも使っている」という相関であり、因果の向きが逆だった。星野氏は「最終的な判断は人間が行います。AIにすべてのコンテキストを渡すことは現実的に不可能ですから」と語り、AIとエンジニアの協働のあり方を示した。
分断されたデータを活用するには? IDでつなげる顧客接点
TOKYU IDの開発・導入支援を担当する高橋圭釈氏は、グループ全体の顧客データが断片化しているという課題について語った。
「データはある。でも、使えない」。東急が長年リアルアセットに頼ってきたゆえの課題を端的に示す言葉だ。交通・不動産・生活サービスなどの各サービスのシステム上で顧客接点や会員情報がバラバラに存在しており、1人のユーザーが東急の複数サービスを利用していても、東急側からは別人として扱われていた。「電車に乗っているAさん」と「東急ストアで買い物をしているAさん」は同一人物として認識されていなかったのだ。
TOKYU IDは、断片化した接点を横軸でつなぐために作られた共通IDだ。「TOKYU IDは共通IDのため、作っただけでは価値がなく、各サービスに導入されお客さまに使っていただいて初めて価値が生まれます」と高橋氏は説明する。高橋氏は各サービスへの導入支援とアドバイザリーを担いながら、各サービスへの導入後も運用上の課題に向き合い続けている。
こうした支援にあたっては、OIDC(OpenID Connect)に基づく認証基盤としての一貫性を保つことも重要になる。そのうえで、改善の相談を各サービスチームから受けながら、仕様の範囲内で改善策を探り、各プロダクトとともにIDの価値を育てている。「IDを登録したくてたまらない」というユーザーは基本的に存在しない。良いサービスがあるからこそIDを登録してくれるのであり、「ただデータを集めること自体が目的ではないので、データを活用してお客さまに良い体験を提供することを目指しています」と高橋氏は語る。顧客のデータを対価に体験の質を上げていく価値の循環こそが、TOKYU IDの設計思想の核心といえる。

データがつながる時代、エンジニアの価値は「実装」の先にある
セッションの終盤、「10年後のエンジニアは何を作る人になっているか」という問いに3人はそれぞれ答えた。星野氏はオフィスビルへのAI導入による、働く体験の変化に期待を寄せた。中川氏はAIの普及でデータが集まる時代だからこそ、「どこまでをAIに渡してよいか」「どう安全に管理するか」という守りの設計の重要性を説いた。膨大なデータが集まっても信頼を失えば意味がない、というのが中川氏の考えであり、「安心・安全の東急」として、お客さまが安心してデータを預けられる関係性を築いていくことが次の100年の基盤になると語った。高橋氏は、東急エリアのリアルとデジタルが自然につながり、AIが最適な体験を提供する世界を目指すと述べた。
最後に、野口氏はセッションのまとめとして「AIが行動を変えていく時代だからこそ、エンジニアの価値は単に実装することだけではありません。これは東急の内製開発だけでなく、これからの時代にすべてのエンジニアに求められるスキルではないか」と語り、「次の100年も東急のまちづくりを進化させていく」と締めくくった。
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