技術的負債の「深さ」と認知的負債という新たな重圧
物語の中では、新規開発に追われリファクタリングもライブラリ更新もできないチームが、障害対応とポストモーテムに追われて疲弊していく。平均プルリクエスト数のような「動いている数字」は見えても、その裏で進む本当の劣化は見えない。
石垣氏は、開発生産性をめぐる誤解の中で最も根深いのは「測れる数字が正しい生産性とは限らない」ことだと語る。静的解析ツールで技術的負債の量を可視化することはできても、それを改善した時の効果までは測りづらい。
さらに近年、海外のAIメーカーを中心にバズワード的に語られ始めているのが「認知的負債」だ。AIにコードを書かせ続けた結果、そのコードを人間が本当に理解できているかという問題である。障害が起きた時、最終的に説明責任を負うのは人間であり、「AIが書いたので分かりません」では済まされない。
しかも認知的負債は、技術的負債と違って開発速度の指標には現れてこないため、発見自体が難しいという。おそらく今、AIを活用する現場の多くで、すでに認知的負債によって開発速度が鈍っているチームがあるはずだと石垣氏は指摘する。
それをどう測るかについては、まだ確立したベストプラクティスがないのが実情だ。
これに対して石垣氏が提案するのが、単一のKPIではなく多角的な「予兆検知」だ。計画見積もりと実績値の差分、コードの変更やレビューにかかる時間の増加、障害の再発防止完了数、そしてチームのエンゲージメントスコアの低下という4つの兆候から、負債の蓄積を早期にキャッチする。
例えば、会員登録機能の開発を大枠では1人月と見積もっていたものが、詳細見積もりで5人月に膨らんだとする。その4人月の差分こそが、そのチーム固有の負債の存在を示すシグナルになりうる。IPAの調査データが示す通り、計画工数が大きいプロジェクトほど実績とのずれは開きやすい。
ブラックボックス的な見積もりの差分と、コードの変更数や消化件数を組み合わせれば、負債の深さは特別な仕組みがなくても見えてくると石垣氏は語る。
数字を追うほど本質から遠ざかる、グッドハートの法則という罠
なぜ指標は形骸化するのか。
石垣氏はグッドハートの法則とキャベルの法則を引きながら、数字が目標そのものになった瞬間、その数字はもう良い指標ではなくなると説明する。Four Keysでプルリクエスト数の目標を掲げれば、メンバーは無意識にプルリクエストを小さく切り分け始める。ユーザー価値の単位ではなく、数字遊びが始まってしまうのだ。
その背景には人間の認知の癖がある。不確実性低減理論によれば、人は不確実性を減らせると安心感や信頼感を得る。認知的流暢性の観点では、理解しやすく処理しやすい情報ほど正しく安全だと感じてしまう。
読みやすいフォントの文章や、わかりやすいグラフのほうが説得力を感じてしまうのも同じ理屈だ。ダウンロードの進捗バーを見て安心するのと同じ「知覚されたコントロール」の心理が、プロジェクトの進捗が見えるだけで安心してしまう構造を生む。見やすい指標に安易に飛びつくことは、本質的な価値を見失うリスクと表裏一体なのである。
だが、小手先の指標という罠を退けたとしても、次に待っていたのは「この成果を、開発者以外にどう説明するか」という、また別の重圧だった。
