溶けたのは、顧客との境界だった
RightTouchでHead of Agent Software Engineerを務める川下治城氏の自己紹介スライドは、自虐から始まっていた。1プロジェクト1か月で、LLMの費用だけで400万円を溶かし、大目玉を食らった男。
同社が展開するのは、カスタマーサポート領域のAIプラットフォーム「QANT(クアント)」だ。この日の焦点は、AIが電話に応対する「AIオペレーター」に置かれた。カスタマーサポートの市場規模は3.1兆円で、その大半が人件費だという。
川下氏の見解は、ほかの2社と角度が違った。溶けたのは職種の境界ではなく、サービス提供側と顧客(エンドユーザー)の境界だという。これまでは、顧客がサービス提供側の用意した窓口や手順に合わせていたが、AIオペレーターが入ると、この関係が反転する。サービス提供側が、顧客の文脈に合わせる。
その変換を担う職種として、RightTouchはASE(Agent Software Engineer)を置いた。サービス提供側と顧客をつなぐエンジニアで、従来は複数の職種でバトンをつないでいた領域を1職種で担当する。他社がFDE(Forward Deployed Engineer)と呼ぶ役割にあたり、同社の資料でもASEとFDEは併記されている。ASEはプロダクトのコードに手を入れず、設定とコマンドラインで完結させる建て付けだ。
同社にプロダクトマネージャーという職種はない。プロダクトエンジニアがプロダクトマネジメントまでを担う、という同社プロダクト開発の思想によるもので、川下氏は自身のnoteでも、この職種を顧客とプロダクトをつなぐ仕事として書いている。
ASEのミッションは2つある。担当するプロジェクトの精度を上げること、そしてそこで得た型をプロダクトへ還元することだ。川下氏が強調したのは後者だ。還元がなければ、ASEは案件ごとの職人で終わる。
「FDEがチューニングします、というだけでプロジェクトを回し続けると、人間の数イコール回せるプロジェクトの数になってしまいます。事業としてスケールしなくなる」
では、どう還元するのか。案件ごとに人が張り付いて精度を上げるやり方は、人数の上限がそのまま事業の上限になる。だから、精度の上げ方そのものを仕組みへ落とす。川下氏が示した型は2つあった。
短期は「評価駆動開発」だ。大手メーカーのPoCで、AIの応対にガードレールを設け、評価ラダーを段階的に定義した。長期は「AIによる自己改善の仕組み」だ。大手証券会社での一般公開後、毎日数百件のログを人が目視で判定していた状態から生まれた「Conversation Harness」という仕組みで、AIが全ログを類型化して改善点を提示し、人は直すかどうかの判断だけを行う。1案件あたりで削減できる最大工数は90%に達した。
「少ない労力で、未来がどんどん賢くなる仕組みを作らないとスケールしません」
3つの答えが出そろった。プロダクトマネージャーは事業責任者になる。プロダクトマネージャーは作る側に戻る。そして3つ目は、プロダクトマネージャーがどこへ行くかという話ですらない。溶けたのは職種と職種の境界ではなく、サービス提供側と顧客の境界だという。同じ前提から出発して、行き先はこれだけ違う。
軸足は変わらず、はみ出す方向が違う
パネルディスカッションで、モデレーターを務めたログラスのProduct CoS(Chief of Staff。プロダクト組織全体の戦略参謀にあたる役職)、広瀬丈氏が最初に投げたのは、境界はどこまで溶けたのかという問いだった。
答えは、3人ともほぼ同じだった。二宮氏の言葉が一番短い。
「結局、軸足は変わっていなくて、はみ出す方向が違うということなのかなと思います」(二宮氏)
これを聞くと、3つの答えを整理し直せる。
二宮氏は人材系企業で営業、カスタマーサクセス、採用コンサルティングを8年経験したビジネス出身で、軸足はビジネスにある。はみ出した先が市場とブランドだった。敷地氏はエンジニア出身で、軸足はつくることにある。はみ出した先が現場と専門職の側だった。川下氏はプロジェクトマネージャーから開発部長、プロダクトマネージャーを経てデリバリーへ移っており、軸足は顧客に届けるところにある。はみ出した先が、プロダクトそのものを作り変える側だった。
| 登壇企業 | 軸足 | はみ出した方向 | 示した答え |
|---|---|---|---|
| ログラス | ビジネス(営業・カスタマーサクセス) | 市場とブランド | プロダクトマネージャーはブランドマネージャー、すなわち事業責任者になる |
| Ubie | エンジニアリング | つくる現場と専門職 | 職種をプロダクトビルダーに統合する |
| RightTouch | デリバリー | プロダクトそのものを作り変える側 | ASEがプロダクトを育てる |
3社の答えは対立していたのではなく、軸足が違うから、はみ出す方向が違っただけ。
では、何が軸足を決めるのか。敷地氏は、バックグラウンドと、もう一つを挙げた。
「自分が何をしたいか、どこにモチベーションを感じるか。そこを持たないまま他の人を参考にして、『じゃあ自分はBiz側に行くかな』と考えるのは、かなりバッドプラクティスです」(敷地氏)
ここまでは個人の話だが、境界が溶けると組織の側にも問題が起きる。評価だ。
「アウトプットは誰でもできるようになるので、アウトプットの境界がなくなるのです」(二宮氏)
誰が出しても同じものが出てくるなら、アウトプットは職種を見分ける材料にならない。評価の軸もアウトプットには置けず、職種ごとに同じものさしを当てるやり方が成り立たなくなる。だから二宮氏は、ミッション設計が完全にオーダーメイドになったという。広瀬氏はさらに踏み込み、組織の組み方までオーダーメイドでなければ意味がないと応じた。
対応は3社で分かれている。ログラスは、入社当時ビジネス側と開発側で共通だった給与テーブルを最近になって分けたが、「プロダクト」としては1本に留めた。どうせ溶け合うのだから、細かく分けても意味がない、というのが理由だ。Ubieは、SlackやNotion、GitHubなどの活動記録をすべてデータベース化し、評価項目を決めてAIがオーダーメイドで評価する、という方針に挑戦している。ただし敷地氏は、結果はまだ出ていないと明言した。採用の判断は人が行っている。
うまくいっていないことも共有された。若手と中堅の入り口だ。3社とも苦しく、ログラスは中途採用をハイレイヤーに寄せる一方で、新卒を育成することで組織に厚みを作りだしている。Ubieは1対1で強みと成果を壁打ちする場を設けつつ、苦戦している若手の採用・育成についても今後力を入れていきたいとしている。
職種の境界が溶けることは、働く側にとっては選択肢が増えることだが、組織にとっては評価と育成の設計をやり直すことを意味する。そして、どこまで溶かしてよいのかという線引きの判断が残る。
それでも、溶かしてはいけないもの
では逆に、溶け合うべきでない領域はどこか。3人の答えは、それぞれの立場を表していた。
川下氏が挙げたのは、プロダクトマネージャーとFDEの境界だ。デリバリーの担当者が個社の要望に合わせてプロダクトのコードへ手を入れ始めると、プロダクトが濁る。
「プロダクトのコードは自分たちが守る、というポジションは持っておくべきです。プロダクトを汚さないためにも、超えてはいけないラインはある」(川下氏)
二宮氏が挙げたのは、互いに牽制し合うべき職種だった。例として人事を出し、牽制関係が要る職種は溶け合うべきではないと述べている。一方で二宮氏は、もっと溶けるべき対象としてTHE MODELを挙げた。インサイドセールス、フィールドセールス、カスタマーサクセスで分けている場合ではない、というのが理由だ。
敷地氏が挙げたのは、プロダクトビルダーと、リーガルやセキュリティとの境界だった。
3人の答えに共通していたのは、残す境界を決めているのが専門性の高さではなく、牽制関係だという点だった。専門性が高いから残るのではない。互いにブレーキをかけ合う必要があるから残す。だとすれば、AIで誰でもアウトプットを出せるようになっても、この線だけは薄くならない。
モデレーターの広瀬氏は、自身がnoteに書いた言葉で締めた。
「僕が言っているのは、責任は溶かすな、ということです。責任は、最後は溶けないと思います」(広瀬氏)
広瀬氏が語る「責任」を起点にした組織論は、ProductZineの別記事でも詳しく取り上げている。
3社の答えが食い違ったのは、見ているものが違ったからではなく、立っている場所が違ったからだった。境界が溶けるという前提を共有していても、どちらへはみ出すかは各自の軸足が決める。そして、はみ出した先で最後まで残るのが、誰が責任を持つのかという線である。この日の議論が読者に残す問いは、2つに絞られる。自分の軸足はどこにあるのか。そして、どちらへはみ出すのか。
