木こりが定着しない現場で、最強の技術は選べるのか
ところが先述の鈴木氏のエッセイには、ひとつだけ厳しいケースが記されている。それは、人が次々に入れ替わる状況では、学習コストは初回限定ではなく、人が入れ替わるたびにかかるのではないかという指摘だ。著者もそれを認め、「教育したと思ったら人が入れ替わってしまうという厳しい環境は想定していませんでした」と記述されている。
エンジニアは入れ替わる。退職も転職もあり、マネージャーに昇格してエンジニアの仕事ができなくなることもある。労務費の転嫁は交渉の余地があるが、予算は白紙の小切手ではない。残るのは教育コストと、人材が独り立ちするまでの待ち時間だ。
その先にあるのが、「教育をしない」プロフェッショナリズムである。教育期間が短いほど優秀でありがたく感じられ、担当者の交代に耐えうる仕組みを作り、キャッチアップしづらい複雑さを採用しない。
もっとも「あるべき論」としては教育はすべきだと渡邉氏は断る。「ジュニアを採用しない連中はシニアに値しない」という記事を挙げ、ジュニアを雇わない会社は誰かのキャリアになる会社ではなく、それは停滞と同じだという主張に共感を示した。
それでも現実には、人を選り好みできない場合や、準委任契約で誰が来るか面談もできない場合がある。それならばAWSやIaC、TypeScript、Pythonのように人が集まりやすいスキルセットから逆算すればよい、という「人材プールを考慮した技術選定」になる。
一方で、これが受け入れられない例もある。AmplifyとNext.jsを採用していた企業が、人材エージェントから技術スタックを理由に人を紹介できないと言われた経緯を公開したところ、SNS上で議論が起きた。
では、技術と政治、純粋と打算という二項対立に落とし込めばすっきりするのか。消極的な選定はそもそも公開されにくく、渡邉氏はこれを、研究の世界で優位性のある研究ばかりが発表される「出版バイアス」に例える。かといって、すべての積極的な選定がありのままを書かれているとも限らず、例えば「履歴書をよく見せるため」という選定意図もあるかもしれない。
「外に情報を出す機会が増えれば増えるほど、公開しない理由が分かってきます」。見栄、政治、打算、妥協。裏の裏まで考えて真実に近づくのは、本当に大変だ。そして渡邉氏はひとつの疑問に行き着く。人間が介在するから、純粋に技術を選定できないのではないか。
