「思考力が落ちている」は、すでに現場の実感だった
1つ目の論点は、これから起きる懸念ではなかった。もう起きていること、として書かれていた。
「ここ最近、AIへ思考を外注化しまくっているので、本当に論理的思考能力が落ちています」
「AIに構造化を頼るようになったのが原因かは分からないですが、自分で構造化するぞってなった時に頭にモヤがかかることが多くなった気がする」
「『まとめる』というプロセスがスキップされるので、使っている自分自身も恐怖を感じたりする」
木下氏が最初に挙げた「まとめる」という手順の消失は、聞いている側でも同じ言葉で意識されていた。
自覚の告白が続く一方で、個人の感覚ではなくチームの実務問題として書かれた投稿もあった。
「AIの要約によって、コンテキストが共有から抜け落ちていく問題に直面してます。要求の背景や顧客での文脈など」
登壇席で同じ論点に立っていたのは木下氏だった。AIスロップ(AIが生成した、それらしいだけの成果物)がなぜ生まれるのかを、判断できないことの帰結として整理している。
「その審美眼とか美意識みたいなものを養えていない人が、AIが出してくる『なんかすごい、それっぽいもの』に対して、本当にそれが構造的にマッチしているかを判断できず、そのまま出してしまう」
会場にも同じ形の投稿があった。「AIのアウトプットがいけてるかどうかの審美眼的なものは自分ができない(自分の力で作れない)と判断できないかも」。懸念の形は、登壇席と客席でそろっていた。
「AIに書かせる技術」を鍛えるのでもいい──二択の先に出てきた代替案
2つ目の論点で、会場は二択に付き合わなかった。議事録を残すか捨てるかではなく、その一歩先に進んだ意見を出してきた。
まず、擁護がある。
「議事録を作って要約することこそ、仕事ができるようになることだと思う」
「議事録は社内の単語、社内のドメイン知識を知る機会」
ただし擁護一色ではない。議事録を書いたこと自体の効果を疑う声も、同じ会場から出ていた。
「議事録を書いてもそれに対してフィードバックがあったわけではないので、それによって成長できたかというと疑問です」
そのうえで並んだのが、代替案だった。
「AIに議事録作らせつつ、新人にも議事録を書かせるのでも良いのでは?」
「議事録を書く技術ではなく(AIに)書かせる技術を鍛える機会で十分育成になるのでは」
「同じように議事録を作るのはAIに任せていても、共有前に中身を確認して判断するというプロセスを手放さずに関わるのか、ほぼそのまま共有するのかでも養われるスキルは変わりそう」
いずれも、AIに任せることと育成の機会を残すことを両立させる案である。20分のあいだに、会場はただ問いに答えるのではなく、育成の設計を再考していた。
登壇席では、同じ論点が「では、その判断力はどこで身につくのか」という形で扱われていた。木下氏が挙げたのは、レビューを頼まれたときの感覚だった。
「感覚的に『これ気持ち悪いな』と思って、詳細を見ると『ここのロジック飛んでたな』と気づく。先に感覚があるなと思って」
その感覚は、手を動かす現場の作業の中で徐々に身についてきた、と木下氏は続ける。
広瀬氏は、その審美眼をもう少し分解してみせた。
「その審美眼を構造的に考えると、そもそも比較ができるかどうかだと思うんですね。いいものと悪いもので比較できるということは、現状分析ができるということ。これはこういう状態だ、と言えるかどうかです」
ただし、それが議事録のような誰にでもできる作業で身につくのかは怪しい、とも付け加えた。
「自家発電できる人」だけを伸ばすのか──ここで会場は割れた
会場の意見がはっきり2つに割れたのが、3つ目の論点である。AIを使いこなす層と、ほとんど使っていない層。そのあいだの中間層が薄くなっていく二極化を、前提として受け入れるかどうかだった。
異議の側からは、この日特に支持を集めた投稿の一つが出ている。
「会話が勝ち組過ぎる。AIネイティブは能力をアップデートしてから求職市場に登場するだろう。しかし、時代の狭間に落ちる人たちは絶対出てくる。氷河期のように、新たな呼び名でひとまとめにされる人たちを救う社会のセーフティーと呼ばれる救済システムが必要になるんだよ!!」
「できる人はできて、できない人はできないという砂時計が拡大するだけ?」(※砂時計は後述)
一方で、二極化を前提に置いたうえで育成の定義を変えるべきだ、という投稿も同じだけ出ていた。
「人材が足りない時代は育成という概念が大事だった気がするが、AI時代は、ある程度の人が割と簡単にプロレベルになる時代。育成しないと伸びないような人は資本主義的に、競争に負ける気がする。自助できる人に対してさらにのばす『育成』が主流になりそう」
「AIが作ろうが自分で作ろうが、アウトプットやアウトカムに責任とるつもりがあるかどうかの差は大きい気がする」
登壇席でこの論点に立っていたのは、広瀬氏だった。広瀬氏がこのセッションのキーワードとして置いたのが「自家発電」である。自律的に自分で回せる、自分で決められる、学習のループを自分で作れる。そういう人を指す。
「それこそAIでポン出しする人って、多分僕、一生AIでポン出しすると思うんです」
ポン出しする人をどう育成するか、という問いはもう詰んでいる、と広瀬氏は言う。そうではなく、ポン出ししない人に機会を提供して伸ばす。実のところそういう議論なのではないか、と。
「わざわざ議事録を使わないと構造化できないような人を育成するというROIの合わないことをやるんでしたっけ、AIがあるのに」
背景にあったのは、中間層が薄くなる「砂時計」の構図である。エージェント型AIの普及によって、知識労働の人員構成は中間層が薄くジュニア層とシニア層に偏る砂時計型になりうる、という見立ては、PwCの「2026 AI Business Predictions」などでも指摘されている。カンファレンス当日も、この構図を踏まえた図が別セッションで示されており、広瀬氏はこれを引いたうえで、今までの二極化はまだ優しい世界だった、と位置づけた。
これに対して木下氏は、二極化の話を2つに分けた。
「『できるやつはできるけど、できないやつはできないよね』という、能力的なものでパキッと割れちゃう、みたいなことが果たして本当にそうなのか、という話と、マクロで見たときに本当にそれでいいのか、という2つの話がありますよね」
では、できる人だけで回せばいいのか。2つ目の問いに対する木下氏の答えは否だった。その理由として挙げたのが、関心という有限のリソースである。会場から届いた別の問い、「結論、人を介在させないほうがいいのか」に答えるなかで、こう話している。
「人が認知する、関心を持つって結構コストが高いんですよね。例えば3日に1個サービスを作って、1か月で10個作りました、その10個のサービスの面倒を見続けますか、というと、結構しんどいと思うんです」
会場からも、同じ感覚が短い一行で返ってきた。
「一個しか無理!関心を向けるのは」
AIがいくらでも作れるようになっても、それに関心を向けて面倒を見続けられる量は、1人あたり限られている。だから、ある程度の人数はどうしても要る。自家発電して勝手に伸びる人のことだけを考えていればいい、とはならない。育成は、AIがあっても避けて通れない論点として残る。

