個人の生産性向上がチーム成果につながらない現実
「今日は『AIエージェントの利用率が100%であれば、生産性は10倍』のはずだったのに、チームの実測を見たときにどうだったか……という話をします」。奥村氏はセッションの冒頭にそう述べ、AIを活用した際の生産性向上に関する質問を、会場の参加者に投げかけた。すると、個人の業務が速くなったという人は多数いたものの、チーム全体として速くなった実感がある人はぐっと減る結果となった。このギャップこそが、本セッション全体のテーマだ。
奥村氏はAI-DLC推進プロジェクトでアーキチームのプロダクトオーナーを務める。ミッションクリティカルな基盤を担当する14名のチームで、AWSのAIエージェント型IDE「Kiro」を採用し、その利用率は100%だ。
だが、AI導入の道のりは決して楽ではなかった。ツールの選定やガバナンス設計などの環境整備(フェーズ1)、勉強会や啓蒙活動による利用率向上(フェーズ2)を経て、ようやくチーム全体が日常的にAIを使用し、効果を実感する状態(フェーズ3)にたどり着いた。その結果、個人の体感では生産性が3~5倍になるという、大きな成果を生み出した。一方で、奥村氏はチームでの生産性についても計測。すると、実測値でたった1.1倍という、わずかな向上しかみられない結果となったのだ。
この結果について、奥村氏は「1.1倍は『遅い』のではなく『漏れている』のシグナル」と表現。個人の改善が全体最適に変換されていない、構造的な歪みを示すシグナルとして受け取るべきという意味だ。
そのギャップを整理するために、奥村氏はチームの速度を3つの要素に分解し、「パイプを通るボール」に例えて示した。チーム全体のアウトプット量(ボールの量)は、「ボールの速度(個人の速さ)」「パイプの太さ(速さが効く範囲)」「パイプの長さ(フロー効率)」の3要素で決まる。AIの導入によってボールの速度は確実に上がった。しかしパイプの太さ、つまりすべての業務タスクに対して同じようにAIの効果が出ているかはまた別の話だ。加えて、パイプの長さ、つまり速くなった分だけ次の工程までの「待ち」が新たに生まれている可能性を指摘する。「ボトルネック以外の部分を速くしても全体の処理スピードは変わらない」という発想を、AI活用の文脈に持ち込んだ。
その上で、奥村氏は自分以外のチームメンバー13名全員にアンケートを実施した。1つ目の質問はAIが効果を発揮する作業での生産性倍率、2つ目の質問はAIを使っても生産性が変わらない・むしろ低下する作業での変化の度合い、3つ目の質問はAI利用できている作業の割合だ。そして、アンケートの結果が示したのは「100%の利用率」という言葉だけでは見えない現実だった。
「全員が使う」と「広く使う」は違う
1つ目の質問では13名中12名が高い生産性向上を実感しており、中でも「3~5倍」という回答が最も多く、10倍以上という回答もあった。AI活用が効果的な作業では、個人の生産性は確かに大きく向上する。ところが2つ目の質問では「変わらない」か、「1倍以下」でむしろ悪化したという回答が目立った。そして、最も課題が凝縮されていたのは3つ目の質問だ。AIを利用できている作業の割合を聞いた結果、4~5割ほど使えていると回答したメンバーが4名いた一方、1割以下のメンバーも2名おり、回答にはばらつきが出た。1割以下と答えたメンバーの場合、1日8時間のうちAIの利用が1時間にも満たない計算になり、それでも「利用率100%」の一員として数えられてしまうという、見落とされがちな課題があった。
つまり「『全員が使っている』は、必ずしも『広く使っている』を意味しない」ということだ。この構造が、「チーム全体の生産性はわずか1.1倍」という結果を生み出していた。
奥村氏は個人の改善がチームの生産性につながらない理由として3つの仮説を立て、何が最大のボトルネックなのかを検証した。仮説1は「個人の速さが遅い(使い方が悪い)」、仮説2は「速さが効く範囲が狭い(AIに任せきれていない)」、仮説3は「フロー効率が悪い(浮いた時間がどこかに消えている)」という3つだ。
仮説1は「すでに解決されつつある」というのが奥村氏の見解だ。AIの導入から時間が経過し、試行錯誤を繰り返しながら使っていった結果、現在はAIへ的確な指示ができるようになってきた。
とは言え、構造的に直すべき問題も存在する。それは「チャットモードとエージェントモードの使い分け」だという。チャットモードでは指示→応答→確認→修正のループに人間が張り付かなければならず、並列作業ができない。一方エージェントモードでは、AIが自律的に動いている間、人間は別のタスクに集中できる。「2つ以上のタスクが同時に進む」という構造的な変化が、個人の速さを底上げする鍵だと奥村氏は述べる。ただし「最初の指示」をいかに緻密にするかが重要となるので、その点には注意が必要だ。
仮説3のフロー効率については、「仕事量は完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」というパーキンソンの法則が関係する。仕事が早く終わってもディテールへのこだわりに時間を費やしてしまう現象だ。この仮説3について、奥村氏は「この問題は、仮説2が解消された後に現れる次の制約なので、今は仮説2を先に対処すべきです」と述べる。
AIに任せきれない4つの壁
チームメンバー13名へのアンケートと、プロダクトオーナー・開発リーダー・開発者へのヒアリングでは、互いの回答を知らない状態で全員が同じ答えを出した。それは、最大のボトルネックは仮説2、つまり「AIに任せきれていない」だということだった。なぜ任せきれないのか。奥村氏はその障壁を「4つの壁」として整理した。
1つ目は「暗黙知の壁」だ。人の頭の中や会話にしか存在しない知識は、AIに届かない。ドキュメントにもメモにも書かれていない情報は、AIにとって存在しないも同然だ。2つ目は「情報アクセスの壁」で、言語化されていてもExcelのローカルファイルなどに散在していてAIが参照できない状態を指す。3つ目は「信頼性の壁」で、プロジェクト固有の知識が乏しいまま生成されたAIの出力は毎回人間が検証しなければならず、コードレビューと同様に「人が作ったものを見直すコスト」が跳ね上がる。4つ目は「対人・創造の壁」だ。他チームへの依頼・顧客との合意形成・新規企画などは、感情や利害関係が絡むため、AIの介入が難しい領域として残る。
4つの壁を突破する実践アプローチ
4つの壁に対し、奥村氏はそれぞれ対応するアプローチを示した。
暗黙知の壁には「SECIモデルの活用」だ。SECIモデルは経営学者の野中郁次郎氏が提唱した組織的知識創造のプロセスモデルで、共同化(S)・表出化(E)・連結化(C)・内面化(I)のサイクルを通じ、暗黙知と形式知を循環させて組織全体の知識を増やす考え方だ。「AI時代においては、AI-Readyになった形式知をいかに増やすかが重要です」と奥村氏は指摘。リモートワークで培ったスタイルを利用し、会議の録画をテキスト化して形式知として積み上げるサイクルを実践した。
情報アクセスの壁には「AI可読化」で対応する。「AIが読めない情報は、存在しないも同然」という発想のもと、保存場所をAIが参照できる環境へと変更した。ExcelやWordといった既存のドキュメントはAIがマークダウン形式へ変換できるため、「まず置く場所を変えること」から始められる。ConfluenceやJiraへのMCP接続、AWSのMCP活用も積極的に整備している。
信頼性の壁には「ハーネスエンジニアリング」で臨む。素の状態のAIは一般知識については高性能だが、プロジェクト固有の知識を持たない。そこでKiroの「Steering」機能を用いてプロジェクト固有のルールをガードレールとして事前注入し、さらに「レビュー用スキル」として別のAIが出力を検証する自動チェック機構を整備した。加えて、人が最終確認しなければならない箇所を絞り込み、環境コードの自動変換なども実現している。
対人・創造の壁には「準備の移譲」で向き合う。これまでコミュニケーションに関わるすべての業務は人間が担っていたが、打ち合わせ前の論点整理・下書き・過去経緯の要約といった準備、打ち合わせ後の議事録整理といったフォローの部分をAIに任せ、人は意思決定と感情が絡む場面のみに集中する役割分担へ設計を変えた。
生産性1.1倍から始まる改善サイクル
4つの施策を進めた先には、フロー効率という「次のボトルネック」が待っている。各タスクの時間見積もりをAIの活用前提で見直し、浮いた時間を次のタスクへ充てる再スケジューリングが必要になる。「人がやれば10時間かかるところをAIで3時間にできるなら、スケジュールも3時間で引き直す必要があります」と奥村氏は語る。人間にとって必ずしも歓迎される考え方ではないかもしれないが、後ろにバッファを持たせたスケジュール感をあえて作っていくことが求められるという。
改善のサイクルはPDCAで回す。アンケートで現状を計測し、仮説を立てて施策を実行し、再び効果を計測する。ロードマップは「1.1倍→1.5倍→2.0倍」と段階的に設計しており、現在は施策1と施策2を実施したことで最大生産性と適用範囲に改善傾向が見られる段階だという。
AI時代のエンジニアに求められること
最後に奥村氏は「これからのエンジニアが目を向けるべきこと」を3点に整理した。「自分から積極的に学び、AIをどんどん活用して個人の生産性を3~5倍に高めること」「暗黙知をAIで利用可能な形式知に変えるサイクルを回すこと」そして「チーム全体を見渡し、ボトルネックを見つけて改善し続けること」の3つだ。「『個人の生産性が3~5倍になり早く終わってラッキー』で終わりにせず、チーム全体で見たときに『ここが遅そうだ』『ここに待ち時間が発生してしまう』という視点で改善していくことが求められます」と奥村氏は語った。
明日からできるアクションとして提示されたのは、「Web会議の録画から始める形式知化」「AIがアクセスできる場所への情報の格納」「AI利用を前提にしたタスクの時間見積もり直し」という、どれも低いハードルで実践できる具体的な一歩だった。「わずか1.1倍の生産性向上」という結果をシグナルとして受け止め、構造を分析して対策を実施し、また計測して次の制約に向き合う。奥村氏のように、このサイクルを回し続ける姿勢が、AI時代のエンジニアリングチームに求められている。
NECソリューションイノベータからのお知らせ
NECグループでは、エンジニアの仲間を募集しています。開発環境やカルチャー、現在募集中のポジションなど、詳しくは採用情報ページをご覧ください。

