オープンソースのSDVリファレンスプラットフォーム「SoDeV」のRPi4/5移植事例
セッションの後半では、株式会社本田技術研究所 SDV研究開発センター SDV開発改革室 開発推進イニシアティブ&アーキテクトブロック チーフアーキテクトの日下部雄一氏が登壇した。国際的なオープンソースソフトウェアコミュニティの最前線において、生成AIをどのようにフル活用しているか、具体的な定量データとともに発表した。
日下部氏は、車載Linuxの標準化団体であるAutomotive Grade Linuxにおいて、Linux Foundation傘下の主要OSSプロジェクトを統合したSDV向けリファレンスプラットフォーム「SoDeV(Software Defined Vehicle Reference Platform)」の開発を、パナソニック オートモーティブシステムズやトヨタ自動車らとともに主導している。
SoDeVは、ハードウェアの制約からソフトウェア開発を切り離し、クラウドや異なるSoC環境上で同一の車載ソフトウェアスタックを動作させるための共通基盤であり、ソースコードはGitHub上で完全公開されている。
今回、日下部氏が取り組んだのは、Renesasの車載用SoC「R-Car V4H」向けに構築されていたSoDeVのソフトウェアスタック全体を、シングルボードコンピューターとして汎用的に入手可能な「Raspberry Pi 4/5(RPi4/5)」へと全面移植するプロジェクトだ。
この移植作業は、単なるWebアプリケーションの移植とは比較にならないほど難易度が高い。Type-1ハイパーバイザーであるXenの移植、Zephyr RTOS(リアルタイムOS)による制御ドメインの構築、VirtIO(仮想化環境における標準I/Oインターフェース)を介したGPUグラフィックス共有、AndroidおよびAGL Linuxの仮想マシン上での同時動作、ブートローダーの調整など、組み込みソフトウェアの最深部におよぶ極めて広範な技術領域を網羅する必要があるためだ。日下部氏は、この極めて難度の高い移植プロジェクトを生成AIを全面的に活用して遂行した。
AI活用で工数最大7倍削減の裏側と現場で判明したリアルな課題
生成AIを組み込み開発の最深部に投入した結果、どのような成果が得られたのか。日下部氏は、実測値に基づく定量的成果を具体的に明かした。
従来の手作業でこの移植を行う場合、ハイパーバイザー、組み込みLinux、Android/AAOS、GPU、グラフィックスという5つの異なる専門領域を持つ熟練エンジニア4〜5名によるチームを組み、約4か月〜6か月(中央値で約190人日、範囲にして約150人日〜245人日)の期間を要する規模のタスクであった。
しかし、熟練エンジニアである日下部氏1名が生成AIを高度なパートナーとして並行稼働させることで、わずか6週間(約30人日〜40人日)の期間で移植を完了させた。追跡したタスク約200件をほぼすべて完了させ、本人によるコミット数86本、XenおよびZephyrのパッチ群90本、技術文書28本を作成した。工数および開発期間ともに、従来比で約4倍〜7倍という劇的な削減と生産性向上を達成したのである。
日下部氏は「手作業ならコードの探索や読解に数時間を要する調査タスクを、AIエージェントを3体並列で走らせることで数分で完了できた。特にドキュメント28本の起草や、C言語のパッチ作成において圧倒的な威力を発揮した」と振り返る。
しかし、日下部氏はこの劇的な成果を提示しつつも「AIを過大評価してはならない」として、現場で直面したリアルな課題と注意点を率直に共有した。
第一に「レビュー負荷の爆発と人間の責任帰属」である。LinuxカーネルなどのOSSコミュニティでは、AIが作成したコードであってもDCO(Developer Certificate of Origin)による署名は人間が行う必要があり、バグや脆弱性に対する最終責任は投稿した人間に帰属する。AIは大量のパッチやドキュメントを極めて高速に出力するが、不適切な設定によるブートループなどの誤診断も発生するため、人間がその全件を精査・レビューする負担は重い。
第二に「厳格なガバナンスとコンフィグレーションの必要性」である。権限を与えたAIエージェントに指示ルールを正しく与えずに自由に操作させると、ビルド環境のディレクトリやマウントポイントを短時間で乱雑に汚染してしまう。どこまでの操作を許可し、何を禁止するかという「ガードレールの設定」を慎重に組み上げる必要がある。
第三に「人間の高度なドメイン知識との合算効果」である。日下部氏は「今回の成果はAI単体が生み出したものではない。私自身が長年培ってきた仮想化やカーネルに関する専門知識、既存の参照コード資産、そしてAIの高速な探索・提案能力が掛け合わさった合算効果だ。専門知識のない人がAIツールだけを使っても、このような複雑な移植を完遂することは現在のAI性能では不可能だ」と強調した。
AI時代におけるエンジニアの3つの役割
セッションの締めくくりとして「これからのAI時代にエンジニアと組織が取り組むべき3つの行動指針」が整理された。
第一に「道具として配る」アプローチから「AIが動ける構造を作る」アプローチへの転換である。単に個人のエンジニアにAIツールを配り、個々の作業効率化に依存する手法には限界がある。組織としてのボトルネックを解消するためには、仕様や設計成果物をAI可読な形式でSSoTに集約し、CIによる品質ゲートと自動承認パイプラインを整えること、すなわち「AIが自律的に動ける開発基盤を設計・構築すること」こそがエンジニアの最優先タスクとなる。
第二に「コードを書く手」から「妥当性と安全性を評価・判断する目」への軸足のシフトである。AIによってコード生成や試作のスピードがどれほど加速しようとも、提示されたアウトプットが製品として安全か、ハルシネーションによるリスクがないかを最終判断できるのは、ドメイン知識を持った人間のエンジニアだけだ。エンジニアは「コードを書く作業者」から「評価・判断・安全保証の責任者」へと自らの役割を認識変更しなければならない。
第三に、人間とAIの協働におけるガバナンスとルールの厳格化である。OSSコミュニティにおける著作権・責任の明確化や、AIエージェントに対するファイル操作権限の制限など、AIをチームの「信頼できる構成員」として安全に組み込むためのガバナンス設計を怠ってはならない。ルールなきAI導入は、環境の乱濁やセキュリティリスクの増大を招く。
AIがコードを「速く作れる」ようになった時代だからこそ、システム全体のアーキテクチャを描き、安全と品質を守り、AIが走るための構造をデザインする「人間エンジニアの仕事」の価値は、これまで以上に高まっている。
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