AIエージェントの急進化と開発現場に起きている変化
セッションの冒頭、株式会社本田技術研究所 SDV研究開発センター デジタルエンジン開発室 AI開発ブロック マネージャーの田中英之氏が登壇し、エンジニアを取り巻く環境の急激な変化について言及した。
2022年11月に登場したChatGPTは、わずか5日間で100万ユーザーを獲得し、今や毎週9億人が利用する巨大インフラへと成長した。しかし当時の使い方は、困りごとに対して人間がAIと対話する補助的な範囲にとどまっていた。その後、2023年から2024年にかけてCopilotをはじめとする支援ツールへと拡張し、2025年以降はClaude Codeや各種AIエージェントのように、指示を与えれば自律的に調査や実装、テストまで遂行する「AIに任せる」時代へと突入している。
田中氏は「もはや採用面接などで『何行のプログラムを書いたのか』を聞く時代ではなくなった。プログラムの自動生成が当たり前になる中で、コードを書く手作業そのものの価値は変化し、生成されたアウトプットを正しくチェックして安全性を監視する仕組みや人の存在が不可欠になっている」と、開発現場の変化を振り返る。
ツールが進化し、自律的なエージェントが複雑なタスクをこなすようになる一方で、ガバナンスや安全性の問題も顕在化している。便利さが増すほど、人間が管理すべき境界は外側へと拡張していく。田中氏は、これからのエンジニアには進化するAIを正しく評価し、時には監視・抑制できるだけの専門性と視点が求められていると語った。
自動車は「究極のフィジカルAI」──スピード競争の裏にある落とし穴
なぜ今、大手自動車メーカーであるHondaがこれほどまでにAI駆動開発に傾注しているのか。田中氏は「自動車こそが究極のフィジカルAIだからだ」と説明する。
現代の自動車は、多数のカメラやミリ波レーダー、超音波センサーといった知覚系デバイスと、ハンドル、アクセル、ブレーキといった制御系アクチュエーターを備えた巨大な精密機械である。画面上のテキストや画像を扱う「静的なAI」の時代を経て、認知AI、生成AI、AIエージェントが統合され、現実世界を物理的に動かす「フィジカルAI」の領域において、自動車はその最大の主戦場となっている。年間約1億台、市場規模にして約450兆円におよぶ巨大な自動車市場は、AI技術のビジネス化と投資回収においてきわめて重要なターゲットだ。
特に中国市場をはじめとするグローバルな自動車開発の現場では、国を挙げた支援を背景にAI機能の進化・実装・公開サイクルが驚異的なスピードで回っている。国内製造業も「このスピード感に追いつかなければ生き残れない」という強い危機感とプレッシャーの中に置かれており、生成AIとAIエージェントを組み合わせた開発速度の引き上げは避けて通れない命題となっている。
しかし、自動車開発において「作るスピード」だけを追求することには重大な危険が潜む。田中氏は、車載アシスタント機能に関する検証実験での失敗例を明かした。
田中氏は「通常の質問に対してAIは9割以上の確率で正しく有用な回答を出す。しかし、残り数%の確率で発生するハルシネーションや安全上の誤りを見抜き、確実にガードレールをかけるためには、ドメイン知識を持った人間のエンジニアによる評価と判断が不可欠だ。AIの活用により試作やコード生成は圧倒的に早くなったが、安全性の判断、責任ある仕様決定、リリース可否の改善方針づくりといった『人間が判断する仕事』はむしろ密度が増している。スピードが上がった結果、エンジニアの仕事量は減るどころか増えているのが現実だ」と指摘する。
車載ソフト開発を阻む「巨大複雑化」の現実
続いて、株式会社本田技術研究所 SDV研究開発センタースマートキャビン開発室 開発改革ブロック スタッフエンジニアの齋藤優介氏が登壇した。カーナビやメーター、オーディオなどの車載情報機器システムであるIVI(In-Vehicle Infotainment)の開発現場において、AI駆動開発をどのように組織・プロセスへ組み込んでいるかを語った。
HondaのIVIソフトウェアは、Googleが提供するAAOS(Android Automotive OS:車載向けに統合・拡張されたAndroid OS)をベースに構築されている。これはスマートフォンのAndroidと同一のコードベースに車載向けの各種拡張を加えたものであり、その上層にHonda独自のアプリケーションやインターフェースを載せて製品化している。
IVIソフトウェアの特徴は、巨大かつ極めて複雑な開発体制にある。IVI単体のコード規模だけで数百万行におよび、土台となるAOSP(Android Open Source Project)全体を含めるとさらに数桁大きい世界となる。この膨大なソースコードを単一の企業で開発することは不可能だ。そのためGoogle、SoC(System on a Chip:主要機能を1チップに集約した半導体)ベンダー、ハイパーバイザー(仮想化ソフトウェア)ベンダー、Tier1サプライヤー、ソフトウェアベンダーなど、複数社が領域を重複させながら複雑に連携して開発を担当している。
このような巨大な組み込みソフトウェア開発において、「AIツールを導入すれば開発全体が手放しで速くなるのか」という疑問に対し、齋藤氏は「個別作業そのものは確かに速くなるが、それだけでは車載開発の全体速度向上にはつながらない」と断言する。その理由は、車載開発特有の厳格な品質保証構造にあるからだ。
車載ソフトウェアでは、単に「動くコードがある」というだけでは製品として車両に搭載できない。複数社で品質を担保し、どのようなプロセスで正しく作られたかを第三者に客観的に示すため、「Automotive SPICE」に基づくプロセス審査をクリアすることが必須条件となる。
システム要求分析から基本設計、詳細設計、実装へ至り、単体検証、結合テスト、システムテストへと上がっていく「V字モデル」の開発プロセスを厳格に順守し、各工程で生成される仕様書、設計書、テスト結果といった中間成果物同士が正しくリンクしていること(工程間トレーサビリティ)を証明しなければならない。

