人生100年時代に「学びなおし」を選んだ理由
現代は「人生100年時代」に突入したと言われる。『LIFE SHIFT』の著者であるリンダ・グラットン教授が提唱した価値観で、これまでのモデルケースであった「60歳や65歳で定年し、残りは余生として悠々自適に暮らす」という生き方の崩壊を意味した言葉だ。そしてそれは、海外の一研究者の発言の枠を超え、日本においても「人生100年時代構想」として国策化され、生涯学習や高齢者雇用の促進などの取り組みが行われている。しかし、常に変化を続け、そして年々そのサイクルが加速しているIT業界においても、それは実現できるのか。我々エンジニアは、いつまで学び続け、働き続けることが可能なのだろうか。
その問いに対するひとつの解答事例が、このセッションにある。講演者のよしおかひろたか氏は、1958年生まれの60歳で、2018年に定年退職をした後、東京大学の博士課程(情報理工学系研究科 電子情報学専攻)へと進学した。「生涯現役」を掲げる氏が、なぜ今学びなおしという道を選んだのか。その理由は、氏の人生でいくつも起きた「パラダイムシフト」を辿るこのセッションで、浮かび上がってきた。
どのパラダイムシフトが起きたときも、その事実に気づけなかった
セッションの冒頭、よしおか氏はキーワードである「パラダイムシフト」という言葉の解説から始めた。
「今までの常識から180度価値観が変わること。これがパラダイムシフトです。コペルニクスの地動説のように、パラダイムシフトをきっかけにして、多くの人たちが信じていた規範が大きく変わります。そして、時代はそれにより確実に変わっているのに、その中にいる我々はまた、それに気づかないことが多々あるのです」
氏は自身の半生を追うことで、自分自身を事例としてひとつひとつ説明した。まず、世界初のマイクロプロセッサと言われるIntel 4004が生まれたのが1971年。これがマイクロプロセッサ革命の発端ともいわれるもので、IT業界黎明期におけるパラダイムシフトのひとつだが、よしおか氏は中学1年生で、まだその存在は知らなかった。その後、ハードウェアの革新は1977年に発売されたApple Ⅱに続いていき、こちらは話題となるが、同年におけるもうひとつの重要な発明としてRSAの公開鍵暗号があった。現代においてオンライン決済などを安全に行うための重要なアルゴリズムであるが、当時はインターネットも実用化されておらず、そのような使われ方にはほとんどの人が気づいていなかった。やがてよしおか氏は1984年にDEC社に就職し、プログラマーとして活躍していくが、4年後の1988年にあったUnicode提案、1989年のHTML、HTTP、URL提案といった現代を支える数々の革新についても、当時同じ業界にいた立場であったにもかかわらず、その重要性に気づくことはできなかったという。
その流れはその後も続く。1998年にNetscape社がMozillaというOSSを立ち上げるという「事件」が起こった。無料でソフトウェアを配ってどのように商売をするのか。それまでソフトウェアに値段をつけて製品として販売する仕事を続けていたからこそ、「意味が分からない」というくらい驚愕したという。どう考えても持続可能性がなく、うまくいくわけがないと断言したほどだと語った。しかし現代においてOSSは一般化し、多くのソフトウェアがその形態でシェアを得、エンジニアの精神を体現するような文化として長く続いている。
パラダイムシフトに気づけなかったという体験は、業界黎明期に限らず、Web 2.0を迎え成熟した2000年代でも変わらなかった。2007年のiPhoneは携帯電話の種類のひとつくらいにしか思ってなかったと語り、2009年のBitcoinも知ってはいたが特にピンとくるようなものではなく、現在のような仮想通貨の流行は想像できなかったという。