エンジニアリングマネージャーというロールが抱える本質的な難しさ
本セッションでは、エンジニアからエンジニアリングマネージャー(EM)へと役割を移行した人々が直面する悩みについての実践知が共有された。理論やフレームワークの紹介に終始するのではなく、現場での試行錯誤や感情の揺れを含めて語り合おうという試みだ。
モデレーターを務めた新多真琴氏は、株式会社LayerXで「バクラク」シリーズの開発チームを率いるEMである。キャリアの出発点はDeNAで、その後複数社を経験。前職ではCTOとして初めて本格的にマネジメントロールを担い、その難しさに直面した人物だ。今回のパネルは、新多氏が執筆した書籍『エンジニアリングマネージャーお悩み相談室』の刊行をきっかけに企画されたものであり、「理想は分かるが、実践できない」というEM特有の壁をどう乗り越えるかが中心テーマとなっている。
本書の制作過程では、レビュアー陣から「ここが分からない」「これでは読者には伝わらない」といった容赦ない指摘が飛んだという。本セッションでは、そうした客観的な視点から完成度の向上に貢献したレビュアーたちが、新多氏とともに登壇した。
口火を切った小田中育生氏は、株式会社カケハシでSCM Head of EngineeringとEMを兼務し、10年以上にわたりマネジメントに携わってきたベテランだ。自身は「目標設定を軸にマネジメントを実践してきた」と述べ、どこに向かうのかをメンバーと共有し続けることに強くコミットしてきたと話す。そのうえで、マネジメント書が数多く存在する中で、本書が「お悩み相談」という切り口を取っている点を高く評価した。
特に小田中氏の印象に残ったのは、EMになりたての心境を扱う序盤のパートだ。エンジニア時代は、コードを書けば即座に成果が見える。しかしマネージャーになると、自分のアクションの効果が現れるまでに数カ月、あるいは一年以上を要することもある。「その時間軸の変化をどう受け止め、自身の価値を再定義するのかという問いが、早い段階で提示されている点が良かった」というのが小田中氏の評価だ。また、1.5年先を見据えるという長期視点を持ちつつ、目の前の短期課題を行き来する難しさにも言及し、「そこがマネジメントの醍醐味であり難所だ」と分析した。
次に発言したmiisan氏は、株式会社令和トラベルで旅行アプリ「NEWT(ニュート)」の開発に携わる。キャリアの多くをQAエンジニアとして歩みつつ、現在はプロダクト開発組織全体のマネジメントをリードしつつ、エンジニアが所属するユニットの統括や、全社のAI活用を推進するAX(AI Transformation)室、さらには全社のリスクマネジメントに関わっている人物だ。miisan氏は、「日々直面している組織文脈での悩みに、本書の内容が効果的に響いた」と話す。
特に、専門家でない領域をどうマネジメントし、どう背中を見せるのかというアプローチが書かれていた点が良かったという。これまで以上にAIの台頭によって職種の境界が曖昧になり、マネージャー自身が専門性の枠を越境することが求められる現代において、明日からのアクションに直結する具体的なメソッドが凝縮されていると話した。
最後に発言した三谷昌平氏は、株式会社スマートバンクでサーバーサイド部の部長を務め、AI家計簿アプリ「ワンバンク」の開発組織を率いる。昨年EMになり、今年から部長職に就いたという、まさに役割変化の渦中にいる人物だ。本書を読みながら、「一年前に抱えていた悩みへの答えと、現在進行形で直面している悩みへのヒントの両方が書かれていると感じた」と明かす。
「序盤ではEMになりたての頃の葛藤、後半では事業視点を求められる悩みに触れるという、時系列順で悩みを整理する構成が光っていた」と話し、「まさに自分自身、本書の構成をなぞるようにEMとしてのステップを踏んでいる感覚がある」と、そのリアリティを評価した。
EMになりたての現実──不安・失敗・視座のズレ
さて、ここからは「EMのお悩み相談」パートである。最初に提示されたテーマは、「EMになりたてのころ、何が難しかった?」である。
まず新多氏は、自身がCTOという肩書きを与えられたことで、マネジメントする人数が一気に増えた当時を回顧する。経営陣に対して技術的なリスクを説明し、「将来こうした問題が起きるため、今のうちに手を打つべきだ」と提案したところ、その内容はほとんど検討されることなく通ってしまった。新多氏はこの影響力に、一種の恐怖を覚えた。
もし判断を誤れば、すべての責任が自分に返ってくる。その重圧に耐えきれず、自らを任用した取締役に相談した。「それが責任を取るということだ」と諭され、ようやく腹をくくれたと語る。エンジニアからEMへのジョブチェンジ、すなわち“転生”とは、裁量を得ると同時に、逃げ場のない責任を引き受けることでもあるのだ。
この話を受け、小田中氏も自身のキャリア初期を振り返った。長年蓄積された技術的負債と向き合い、リファクタリングを続ける中で、自然と周囲との調整やチーム改善に関わるように。その延長線上で、マネージャーへの昇進を打診された。ただし当時のチームは、自分より年上で社歴の長いメンバーが多く、先頭に立って引っ張るリーダー像は非現実的。そこで選択したのが、サーバントリーダーシップだった。
メンバーの話を丁寧に聞き、雑務を引き受け、技術的負債の解消にも積極的に取り組む。その姿勢は当初、「いいマネージャーだ」と高く評価され、チームの雰囲気も良好だった。しかし時間が経つにつれ、「このチームは価値を生んでいるのか」という疑問が周囲から投げかけられるようになる。
リファクタリングは進んでいるものの、事業への貢献が見えない。メンバーの声に寄り添うことに注力するあまり、「このチームは何の価値を生み出す存在なのか」という視点が抜け落ちていたと、小田中氏は自省する。自分がメンバーだったら嬉しいことと、マネージャーとして果たすべき役割は必ずしも一致しない。その視点の切り替えこそが、小田中氏が最初に直面した大きな壁だったという。
他方、三谷氏は、EMになりたての環境そのものが難易度を押し上げていたケースだ。昨年4月にEMに就いた際、チームは三谷氏を含む4人体制で、他の3人は全員が新卒入社直後。メンバーのスキルや志向も分からない中で、会社の方向性と個々人の目標を同時にすり合わせなければならなかった。
さらに三谷氏は、プレイングマネージャーとしての葛藤にも言及する。新しく入ったメンバーにコードベースを説明する場面では、自分で手を動かした方が早いケースも多い。一方で、マネージャーとしては開発から距離を取りたい。その狭間で揺れ動き、メンバーに任せすぎた結果、相手を困惑させてしまった失敗もあったという。「後から振り返れば改善点はクリアだが、渦中では判断が極めて難しかった」と率直に述べた。
miisan氏は、そもそもEMへの打診を「何度も断ってきた」と明かす。辞退の理由は、「端的に言えば自信のなさ」。身近にロールモデルとなるマネージャーが存在せず、「自分にもできそうだ」と思えるイメージを持てなかったことも大きかった。「自分より経験値のある先輩方の人生に責任を持つことへの重圧もあり、マネージャーという仕事を具体的に想像できなかった」というmiisan氏の言葉は、会場の多くの共感を誘った。
この発言を受け、小田中氏は「マネージャーの仕事は、内実が見えにくい」と指摘する。コミュニティで語られる経験談は理解できる一方で、社内ですぐ近くにいるはずのマネージャーが何をしているのかは分かりにくい。この不透明さが、ロールに就く際の不安を増幅させるという見解だ。自身もマネージャー就任時、「もうコードは書かなくなるだろう」と告げられ、大きな葛藤を抱えた経験があるという。
新多氏は、「コードを書くことを完全に手放し、チームの価値創出に振り切るという選択肢もあるが……」と留保しつつ、その選択が「これまでの自分を捨てるようで怖い」という感覚も理解できると寄り添う。小田中氏がサーバントリーダーシップに傾倒した背景には、「何かをやっている実感」を失いたくなかった心理があったのではないかという指摘に、登壇者たちも深くうなずいた。
失敗を前進に変えるために、EMがやるべきこと
続いて語られたのは、「目標設定・方向性の共有」と「メンバーとの信頼関係」を軸に、EMがチームを前に進めるための具体的な実践である。
新多氏は、「チームが向かう先を揃え、生み出す価値の総量を引き上げることこそがマネージャーの責務」と定義する。個々人が別々の方向を向いていては、成果は生まれない。議論は、どうやって方向性を揃え、それを維持するのかへと進んでいった。
小田中氏が強調したのは、目標設定における最大の難所は「正しさ」ではなく「腹落ち」だという点である。会社や組織の方針に沿うことは前提として、マネージャーがトップダウンで目標を与えた瞬間、それは「タスク」に変わり、推進力を失うことが多い。「前職でOKRを導入した際、うまく機能しなかったチームがあったが、その原因は善意でマネージャーがOKRを作り切ってしまったことにあった」と小田中氏は語る。
そこで現在のチームでは、方向性は示しつつも、キーリザルトの具体化をメンバーに委ねているという。悩み抜いて作られた指標は、定量的かつチャレンジングであり、事業側にもエンジニア側にも納得感のあるものだった。その結果、後回しにされがちな非機能要件の改善が一気に進んだという。マネージャーの号令ではなく、メンバー自身が決めた目標だからこそ推進力が生まれたという見立てである。
新多氏はこれに同意したうえで、「今期のあなたには、こういう役割を期待している」という前提を示し、個人のWILLとすり合わせた目標を一緒に作るのもおすすめだと補足する。このやり方も、方向性を示したうえで、個人のモチベーションを引き出す手段のひとつだ。
ただし、現場によっては方向性の共有そのものが難しい場合もある。miisan氏は、「事業の方向性は数字で語られがち。これをそのまま伝えても人は動かない」と指摘する。だからこそマネージャーは、数字を「意味のある言葉」に翻訳し、日々のコミュニケーションの中で、関心や挑戦したいことと接続して伝える必要があると話した。
信頼関係の話題では、三谷氏が1on1を「場の設計」として捉える実践を紹介した。テーブル越しではなく、散歩やランチなど並走型のコミュニケーションの方が本音が出やすい。新入社員が多い時期には、3か月ほどは散歩1on1を続け、心理的安全性を優先したという。新多氏も、1on1を雑談で終わらせないためにフォーマットを用意し、振り返りのきっかけを設計していると明かす。1on1は気合ではなく、仕組みで回すものだという示唆だ。
どれだけ"ありがち"な悩みであっても、EMに唯一の正解はない。セッションを締めくくるにあたり、小田中氏と新多氏はそれぞれの言葉でそのことを改めて示した。小田中氏は、失敗を「学習」や「前進」と捉えられる組織文化をつくることこそがマネージャーの役割だと述べ、新多氏は「ソフトウェアエンジニアリングもマネジメントも不確実性との戦い。分からなくて当たり前という前提で、何が分かったのかを確認しながら、失敗を恐れずに挑戦できるチームをつくっていきたい」と語った。
