人間を知る上で大事なプリンシプル
プリンシプルとは原理や原則、主義などを表す。時代背景が変わっても生き延びた普遍的な知見であり、上田氏は「役に立つ情報の、精鋭部隊のイメージ」と話す。ここでは歴史上の人物が残した名言から、上田氏がチームワークに役立つものとWeb Performer開発で重視しているものをピックアップして紹介する。
「我と汝」(マルティン・ブーバー)
ブーバーはユダヤ系宗教哲学者で人間関係のプリンシプルを残した。人間は「我と汝(あなた)」、「我とそれ」の世界を生きていると説いた。言い換えると、人間は人間関係において、相手を自分と同等のヒト(汝)として見るか、相手を何らかの機能を持つモノ(それ)として見るかに分かれるという。
対人関係で「我と汝」のスタンスだと、相手をヒトとして見るため、相互に尊重するようになる。しかし「我とそれ」だと、相手を(依頼したコーディングをするなど)機能として見てしまうため、期待通りでないと相手の人格を否定してしまう。ひいては、相乗効果を生む創造的なチームにならない。
ブーバーは「他者を、自分の利益を得るための道具として見ない。はかり知れない独自性を持った存在と見る」と説いた。仕事でも家族でも、相手を「自分に利益をもたらす何かを提供する存在」として機能面だけで見てしまうと、深い信頼関係は築けなくなる。自分と同様に、無限の可能性を持つ人間として接することが大事だ。
「シニフィアンとシニフィエ」(フェルディナン・ド・ソシュール)
ソシュールは近代言語学の開祖。大まかにいうと、シニフィアンとは意味するものなので「言葉」、シニフィエとは意味されるものなので言葉が表す対象となる「モノ」。例えば、シニフィアンは「蝶」という言葉であり、シニフィエは蝶そのものを指す。ところが、フランス語では、シニフィアンが「Papillon」だと、シニフィエは蝶だけではなく蛾も含む。つまり、言葉と対象物は1対1とは限らない。これを「言語の恣意性」という。
また、言葉があることで、世界から言葉が表す概念を切り出すことができる。これを「世界の文節化」という。例えば、言葉も概念も知らない赤ちゃんの世界は全てがぼんやりと見えているが、「蝶」という言葉を覚えると、視界から「蝶」を切り出して知覚する。
こうしたことから人間は世界をありのままではなく、理解できる言葉で切り取り、パッチワークの集合のように見ているとソシュールは説いた。そう考えると、人間の思考も会話も部分的な理解のつなぎ合わせなので、不完全なものだと分かる。
上田氏は「言葉が世界を構築するなら、言葉や知識を増やしていけばいい。思考も豊かになっていく。それには読書が一番いい」と話す。言葉や知識を増やすことで、対話のなかで思考や理解の隙間を埋めていける。
「無知の知」(ソクラテス)
ソクラテスは、古代ギリシャの哲学者。人間は漏れなく無知であり、無知を自覚していないことが問題だと説いた。全てを知り尽くした人間などいない。「私は分かっている」という態度は「無知のままでいる」という決意表明になる(おそらく本人は無自覚)。人間は生きている限り成長を続けることができるのに、成長を止めることになりかねない。
人間が知っていることは世界のごく一部。「既知」の外には、不勉強であることが認識できる「既知の未知」があり、さらにその先には知らないことすら知らない「未知の未知」が広がっている。
上田氏は「無知であることを努々自覚し、知識を吸収し続けることが大事」と言う。時には既知すら「本当に正しいか?」と疑う姿勢も大事だ。そこには謙虚さが必要になる。
ほかにも、上田氏はキルケゴールの「絶望」、ユクスキュルの「環世界」、ギブソンの「アフォーダンス」を簡単に紹介した。