アーキテクトを目指した道、名づけられた役割
続いてテーマは、「なぜアーキテクトになったのか」という、より個人的なキャリアの話題へと移った。自ら名乗ったのか、組織から与えられたのか。その歩みからアーキテクトという役割を紐解こうというわけだ。
まず語ったのは尾髙氏だ。「実は、アーキテクトになろうと思ってなったわけではない」と前置きし、シニアアーキテクトと名乗るに至った経緯を明かす。
尾髙氏は前職・現職ともにエンジニアリングマネージャーとしてキャリアを積んできた。転機となったのは現CTOとの対話だった。事業成長の過程で「事業に貢献するソフトウェアの構造」を模索するなか、構造化や品質に対する問題意識が一致したのだ。その結果、DDDやイベントストーミングといった実践を通じて現場を率い、新たな構造を持ち込む役割を期待されるようになった。
しかし、その役割を表すには、従来の肩書きでは不十分だった。そこで与えられたのが「シニアアーキテクト」という名称だった。役割が先にあり、名前は後から付いてきた形だ。
もっとも、その肩書きは自身の意識にも変化をもたらした。当初、尾髙氏が抱いていたアーキテクト像は、大規模SI案件における「規律を求める怖い人」だったという。しかし、自身の仕事を棚卸しする中で、構造化を一貫して推進してきた事実に気づき、「自分はアーキテクトなのだ」と腹落ちした。名乗ることへの気後れが消え、対外的な発信においても、肩書きが文脈を補強するようになったと語る。
一方、米久保氏のキャリアは尾髙氏とは対照的だ。2000年に新卒でエンジニアになった当時、開発職の選択肢はPM、SE、PG程度に限られていた。米久保氏は早い段階でPMに適性がないと自覚し、技術で生き残る道を模索するなかで「アーキテクト」という言葉に出会う。
ITスキル標準に登場したその肩書きに、米久保氏は強く惹かれた。ちょうど同時期、レガシーシステムの保守に疲弊していた現場に外部からアーキテクトが招かれ、構造改善に取り組む機会があった。その人物に師事する中で、「これこそ自分がやるべき仕事だ」と確信したのだ。このような経緯から、入社3年目にはすでにアーキテクトを志していたというから驚きだ。
もっとも、「名乗った当初から真にアーキテクトだったかと問われれば疑問は残る」と米久保氏は振り返る。初期は個人プレー志向が強く、「自分の技術力があれば何とかなる」と考えていた時期もあった。しかし、大規模なシステムを任され、チームでなければ成果を出せない現実に直面したことで、認識が変わった。
「アーキテクトは一人で完結する存在ではない。チーム全体が適切な判断を下せるよう、仕組みやプロセスを設計する役割だと気づいたとき、初めてアーキテクトになったのかもしれない」。米久保氏はそう語り、思考プロセスや判断基準を共有し、同じように動ける人を増やすことが、開発を前進させると強調した。
尾髙氏もこの意見に同調した。「マネジメントは人を信じなければ成り立たない。完璧を求めるのではなく、一定のラインまでやってくれたらよしとする。『足るを知る』ことを学んだ」と語る。
両者の歩みは対照的だが、行き着いた地点は近い。米久保氏が「アーキテクトには、技術だけでなく、組織づくりや人づくりを含めた価値創出の視点が欠かせない」と述べると、尾髙氏も「どれほど優れた構造やアーキテクチャでも、なぜそれが良いのかを伝えなければ人は動かない。設計思想を共有し、納得を引き出すソフトスキルこそが重要だ」と応じた。
