「聞きに来てくれてありがとう!」と、エンジニアであり続けるために会社を興した「エンジニア経営者」の漆原氏。そこに、デモをしない登壇は今回初という「オタクエンジニア」のジニアス氏、プロダクトを作り続けていないと死んでしまう「パラレルキャリア軍師」のトッキー氏が加わり、「楽しいエンジニアの生き様」について語り合うパネルディスカッションがスタートした。
どこでどう生息しているの?
個性豊かな3人のエンジニアは、日頃どのように仕事をしているのか。まずは「生態」の紹介から始まった。
口火を切ったのは、日本マイクロソフトのマイクロソフトテクノロジーセンターでテクニカルアーキテクトの職に就くジニアス氏。「生息地は品川のオフィスで、企業の経営層やエグゼクティブ層に対してプレゼンテーションをするのが主な仕事。年間100~150社にアプローチする。技術的に難しい発表だと眠いし響かないので、様々なデモを仕込んで興味をひき、最終的に『マイクロソフトすごい』と思ってもらえることが目標」と語る。
「マイクロソフト一筋26年間勤務。あと5年、定年まで多分やる」と微笑むジニアス氏に、「レアキャラ!」「外資系ではいない」とざわつく漆原氏とトッキー氏。実際マイクロソフトでは、技術や製品が続々と登場するため飽きないでいられたのだという。しかし「今も全部取り込むように努力はしているが、歳を取るとキャッチアップが大変になり、実は時々取りこぼしがある」と大企業ならではの悩みを見せた。
続いてトッキー氏は、7年前に東京から沖縄に移住し、他に伊勢、九州、札幌、ブラジルなど世界中が出没地だという。AIのEBILAB、パーソルホールディングス、会計ソフトのPCA、沖縄にあるレキサスなど13枚の名刺を持ち、アウトプットのコミット制で仕事をしているという。「アウトプット品質が悪ければ即切られる」と笑うトッキー氏を、漆原氏は「ドMですね」とツッコむ。
しかし、そんな漆原氏も変わり者としては負けてはいない。自称「すみっコぐらし」でこっそりと生息しつつ、稀に人前に経営者として登場するのは四半期の決算発表くらいだという。「JSONでデプロイ」などと、プログラム風に紹介されるという決算報告はエンジニアなら分かるとか、分からないとか……。
なぜ個性際立つキャラに化けた?
それぞれキャラが立った3人だが、フレッシュな新人時代もあったはず。なぜ、個性際立つ現在のキャラに化けることとなったのか。
ジニアス氏はマイクロソフトにサポートとして入社。当時、バグへの対処のために自ら情報収集し、方法を編み出しては「俺ってジーニアス」と一人悦に入っていたという。それをそのままパソコン通信のハンドル名に使っていたが、それを表立って名乗るようになったのは、イベントへの登壇がきっかけ。話すことに対して苦手意識を持っていたことから、「別人になればいいのでは」とアバター的に「ジニアス平井」を使ったところ、それが功を奏したのか、5年連続でトップスピーカーを獲得することになった。以降本名を名乗れず、「ジニアス平井」が定着してしまったという。
一方、いまや「プロダクト軍師」と名高いトッキー氏のキャリアは「クソみたいな現場」から始まったと語る。「SESとしてクライアント側に派遣され、ヒエラルキーの一番下でプロジェクトトップの10分の1の手取りで働かざるを得なかった。業務といえばドキュメントやネットワーク構成図の作成。誰も見ないようなモノに対価が支払われ、セキュリティの厳しいデータセンターの中で、向かいの人とはIPメッセンジャーで対話し、午後5時になると全員がさっと立ち上がって帰っていくという職場だった」と振り返り、「『プロダクトで勝負しないとこの国は死ぬ!』と強く感じた」と語る。
それがプロダクトにこだわり続ける原点となったというが、そこからどうやって軍師にまで上り詰めたのか。トッキー氏は「最初はドキュメントやマニュアルなどでシステムの外側でアベイラビリティを上げる部分、その後はERPで、卵の黄身のように真ん中で『ヒト・モノ・カネ』を司る部分。この2つを行ったり来たりしているうちに、全体の流れが見えてきた。ITでインターフェイスのプロトコルをわかっている人は少ないから、『このポジションを取りに行ったら日本だと楽勝だ!』と気づいた」と語る。そして「私が強いのではなく、強いポジションを取りに行っただけ」と振り返った。
そして、漆原氏は起業の理由について「ずっとエンジニアであろうとしたら、社長になることが必要だった」と説明し、「経営としてはド素人だが、エンジニアがどうしたら幸せになれるか、お客様に価値を提供できるかを突き詰めて考えてきた。一方、『上場企業の社長の振る舞い』といわれるとシュンと5mmくらいに小さくなる(笑)。投資家向け説明会などはもう苦しくて、今も経営よりコードを書いている方が幸せ」と語った。