1.1 デジタルトランスフォーメーションとは何か
ここ数年、DXは非常に重要なテーマとして取り上げられており、様々なメディアやITベンダー、有識者が、情報発信しています。それぞれDXという観点から情報発信しているものの、力点を置くポイントが異なっているため、DXとは何かわかりづらい場合も少なくありません。
人工知能(Artificial Intelligence:AI)やマシンラーニング(Machine Learning:ML)を活かした先進的なユースケースをフィーチャーするものもあれば、ビッグデータやビジネスインテリジェンス(Business Intelligence:BI)の重要性を説くものもあります。
また、モノのインターネット(Internet of Things:IoT)を活用したオートメーションに特化した記事や、仮想現実(Virtual Reality:VR)/拡張現実(Augmented Reality:AR)/複合現実(Mixed Reality:MR)など、クロスリアリティ(xR)について言及するものもあります。このような最先端のITを活用して新たなユースケースを創出することこそDXの本質である、と思われる方もいるでしょう(図1.1)。
このような理解は間違いではありませんが、おそらくDXの“ある一部”の理解にとどまっています。その理由を明らかにするために、DXとは何か、その定義を探ってみましょう。とはいえ、本書執筆時点で、公的な標準機関によるDXの定義は存在しません。そこで次善の策として、英語版のWikipediaにおけるDXの記事を参照してみましょう。
Digital Transformation (DT or DX) is the adoption of digital technology to transform services or businesses, through replacing non-digital or manual processes with digital processes or replacing older digital technology with newer digital technology. Digital solutions may enable - in addition to efficiency via automation - new types of innovation and creativity, rather than simply enhancing and supporting traditional methods.
出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Digital_transformation
[抄訳]
デジタルトランスフォーメーション(DTまたはDX)は、人が手作業で運用するプロセスをデジタル化されたプロセスで置き換えることによって、あるいは古いデジタルテクノロジーを最新のデジタルテクノロジーで置き換えることによって、サービスやビジネスプロセスを変革するデジタルテクノロジーの適用形態である。DXにおけるデジタルソリューションは、これまでのやり方を改善するとか効率的に支援するといった単純なものではない。自動化の枠にとどまらず、新たなタイプのイノベーションや創造性を生み出しうるものである。
英語版のWikipediaによれば、DXとは「最新のITによってビジネスを抜本的に変革するムーブメント」のことのようです。「最新のIT」を活用するという観点に着目すれば、DXとはAI/ML等の最先端のITを活用することである、という見解は誤りではありません。しかし、「最新のIT活用」と同等、もしくはそれ以上に重要なポイントは、後段の「ビジネスを抜本的に変革する」ところにあります。すなわち、DXの本質は、
- ビジネスの抜本的な変革
- (ビジネスの抜本的な変革にあたって)ビジネスの主体をITに委ねる
という二点にあるのです。このようなDXの本質を理解するには、従来型のITとビジネスの連携モデルと比較するとわかりやすいでしょう。
コンピューターは、その誕生から長い間、人の手作業を支援するバックオフィスサービスとして、利用されてきました。Big Techのように設立の草創期からITを駆使してイノベーティブなサービスを提供するケースもありますが、多くの伝統的企業では、ITはいわばかつてのそろばんや電卓のようにビジネスを「支援」するツールであり、ビジネスの主体はあくまで事業部門の人手による作業にありました(図1.2)。
DXは、このような従来型のITとビジネスの協業モデルを抜本的に変えるものです。図1.3は、DXによって実現される理想的なITとビジネスの協業モデルです。
DX後の世界では、ITシステムはもはやバックオフィスサービスではありません。ITシステムは、マーケットに対して製品/サービスを提供しビジネスプロセスを運用する、企業活動の中核となります。実際には、営業部門など事業部門が引き続きビジネスのオーナーシップを持つことになるでしょうが、事業部門のビジネス運用カルチャーはスピーディでダイナミックなマーケットのニーズに応えられるように抜本的に見直されます。
同様に、従来型のITシステム(インフラストラクチャとアプリケーション)も、抜本的な見直しを迫られます。その上で、必要に応じて、AI/MLなどの最先端のITを適用する、これがDXの全体像です。DXとは、最新のテクノロジーを付け焼き刃的に適用するような局所的なものではありません。ITシステムだけではなくビジネスのあり様を抜本的に変革する大きなムーブメントなのです。
1.2 2025年の崖
「2025年の崖」とは、2018年9月、経済産業省が主管する「デジタルトランスフォーメーションに向けた研究会」が発行したDXレポートの副題の一部です。同レポートは、今後DXを怠った場合、2025年以降日本国全体で最大年間12兆円の経済的損失を被るとしており、この損失に象徴される諸問題のことを2025年の崖と呼んでいます。センセーショナルなタイトルの影響もあって、これを機にDXは一気に注目されるキーワードとなりました。
なぜ2025年の崖が出現するのでしょうか? DXレポートによると、IT業界や事業会社における人材不足が、技術面、投資面、ひいてはビジネス面に悪影響を及ぼし、経済的損失を招くとしています(図1.4)。この負の連鎖の中で、人材面に加えて特筆すべき問題が「技術的負債」です。
技術的負債とは何か、説明しましょう。頻繁に新たな技術が登場し、あっという間に既存技術が陳腐化するITの世界で、個々のITシステムをコストの上でも工数の上でも効率的に運用するには、技術革新の都度、タイムリーに既存システムをモダン化するのが最良の方法です。このように頻繁に既存ITシステムをアップデートするほうが、既存製品/技術と最新製品/技術のギャップが小さいため、利用している製品/技術の移行が容易であり、開発/構築/運用に携わるIT技術者もスムーズにスキルアップすることができるのです(図1.5の右)。
一方、ITシステムに抜本的な変更/保守を加えず塩漬け運用した場合、未適用の製品/技術が徐々に累積していきます(図1.5の左)。このように累積された未適用の製品/技術のことを技術的負債と呼びます。
技術的負債が大きくなると適用すべき製品/技術が増え、IT技術者のスキルアップの負担も増えることから、ITシステムのモダン化に際して工数面/コスト面の負担が増大します。最悪、現行ITシステム運用でIT予算を使いつくし、先進的なITへの投資ができないという状況に陥る可能性があります。また、先端技術に関するスキル不足はビジネスの競争力低下の要因にもなるでしょう。このような構造的な問題が相まって、2025年の崖が生じるのです。
DXレポートは危機感をあおるだけでなく、DX実践に向けて現状打破のための解決方針も提示しています(図1.6)。図1.6は4つの主要な解決方針を提示していますが、その中でもITに密接に関係する3つの技術方針について解説を加えましょう。
[1]ITインフラストラクチャ標準化(図1.7)
最新テクノロジーを用いてインフラストラクチャの標準化を図り、環境構築/運用の効率化とスピードアップを目指します。具体的には、標準的なテクノロジーとしてコンテナによる仮想化を検討します。コンテナとKubernetes等のコンテナオーケストレーションによってインフラストラクチャを構築/運用することで、クラウドベンダーを問わずベンダーロックインフリーの共通基盤を実現することができます。
[2]マイクロサービスでアプリケーションをモダン化(図1.8)
マイクロサービスと、テスト自動化をはじめとしたDevOpsを採用することで、アプリケーションのモダン化を進めます。アプリケーションの開発/変更をスピードアップするだけでなく、最大限の自動化によりミスを減らしアプリケーションの品質向上をゴールとします。
[3]システムデリバリー改革(図1.9)
日本の全IT技術者の約70%がITベンダーに所属しており、事業会社(ITシステムユーザー法人/企業)に所属するIT技術者は全体の30%にすぎません。結果として、ITシステムに関するあらゆる対応はシステムインテグレーター(System Integrator:SIer)に依存しており、日本のSIで主流の請負型契約は素早く柔軟なITシステム開発/運用を阻害するブロッカーとなっています。
このような因習を打破し、スピーディでダイナミックなITシステム開発/運用を実現するために、ITシステム開発/構築の内製化を目指します。ただし内製化には組織構築/ビジネス立ち上げ/スキル蓄積等克服すべき様々な課題があり、内製化は中長期にわたる目標とするのが現実的です。短期的には、SIerとの契約形態の見直しと社内IT技術者の育成に投資すべきです。
これらの方針で明示されているように、マイクロサービスはDevOpsやコンテナと共にDXを推進する主要な技術要素として見なされています。すなわち、これまでのITシステム開発/運用のやり方を抜本的に見直し、アプリケーションのモダン化を目指すIT技術者にとって、マイクロサービスは重要な指針となるのです。さらに、DXレポートは、DX実践のスピード感も示しています(図1.10)。
これによると、2020年までにDXのプロトタイププロジェクトを先行実施して、経営判断を下し、以降のITシステムプロジェクトには「DXファースト」で望むのが理想的なスケジュールとしています。残念ながら経営判断が望まれる2020年は終わってしまいましたが、可及的速やかにDX適用の検討と実践が望まれます。
1.3 DX推進のための方策
経済産業省は、DXレポートに加えて、DX推進ガイドライン、DX推進指標等、DXを推進するためのガイド類を整備しています。また、各ITベンダー側もDX推進に有益な研修コースやワークショップを提供しており、民間企業を中心にDXの試行プロジェクトとして多くのProof of Concept(PoC)が実施されています。その一方で、PoCは実施したけれど、DXプロジェクトがPoCで中断した、あるいは自然消滅した、という声も耳にします。なぜ、DXはPoCで止まってしまうのでしょうか?
その理由の1つは、DXを「IT」だけのイノベーションとして捉え、ビジネス運用カルチャーの変革を怠っていることにあります。1.1節と図1.3で示したように、DXの本質は「ビジネスの抜本的な変革」と「(ビジネスの抜本的な変革にあたって)ビジネスの主体をITに委ねる」という二点に集約できます。これらの実践は、組織構造も含むビジネスカルチャーの変革を伴います。組織やカルチャーを変更することなく、ITシステムだけを変えてみても、期待した効果は得られません。ビジネス環境を変えることなく「AIで何か新しいビジネスを作りなさい」といわれても、現場は困惑するだけなのです。
あるべき姿としては、まずは経営陣のリーダーシップの下でビジネス運用カルチャーの見直しに取り組むべきでしょう(図1.11)。
ビジネス運用カルチャーの変革として、マーケットの素早い動きに対応できるように組織体制を変更すべきですが、その際、ITシステムの最大限の活用のため、IT部門とのより密接かつ柔軟な連携を検討します。たとえば、各事業部門にはIT部門とのインターフェースとなる要員を確保し、システム化の要件と優先順位の管理等を通してアプリケーション(≒ビジネス)のオーナーシップを発揮してもらうことを狙うのです。
ビジネスプロセスに関しては、素早い判断とアクションが取れるように、各プロセスの対象を可能な限り細分化し、それに関わる人の関与と手作業を絞ることを検討します。ITで知られるアジャイルプロセスのエッセンスを、ビジネスプロセスにも応用するのです。
そして、ビジネスプロセスを効率的に回すために、ITを最大限に活用します。可能な限り自動化を図り、組織がプロセスを迅速に回せるように努めます。
ビジネス運用カルチャーの見直しと同期を取ってITシステムの変革に取り組みます。DXレポートで述べられているように、インフラストラクチャについては、オープンスタンダードであるコンテナによって共通基盤を構築します。コンテナはベンダーロックインフリーのテクノロジーなので、マルチベンダーによるマルチクラウド環境を構築したとしても、ベンダー固有の違いに起因する運用工数の負担増を最小限に抑えることが可能です。また、コンテナオーケストレーションを併用することで、スピーディで柔軟なインフラストラクチャ環境を構築できます。
アプリケーション開発/運用のモダン化では、DXレポートでうたわれているマイクロサービスやDevOpsを採用し、スピーディなアプリケーション開発と柔軟なアプリケーション変更を実現します。
その上で、これまで不可能とされてきたユースケースやビジネスモデルの実現のためにxRやAI/MLなどの最先端技術を活用します。最先端技術を適用するような、初めての試みはトライアンドエラーを伴いますが、大丈夫です。DXの実践を通して、ビジネス運用カルチャーはトライアンドエラーを許容しフェイルファストを尊重するように変貌しているからです。ビジネスサイドの素早い決定や、急な方針変更には、マイクロサービスとコンテナでモダン化されたアプリケーションとインフラストラクチャが柔軟に応えます。