さて、今回は第1話です。主人公は、
最後のジャーニーが始まった日
「はじめまして、和田塚ちひろです!」
自分の声が上ずっているのをはっきりと感じる。私は今、新しくジョインするチームのプロジェクトルームの入り口に立っている。このプロジェクトルームは、もともと会議室だったらしい。部屋にはまだ1人しかいなかったが、あと4、5人も入ったら手狭に感じることだろう。窓もなく、既に息苦しさを感じる。
プロジェクトルームの中に唯一いた女性が、座ったままゆっくり椅子を回してこちらを向いた。やや目が細く、視力が悪いのだろうかさらに目を細めて私の顔を見つめている。にらみつけられているようで、胸が早鐘を打った。やがてひねり出したような声が漏れた。
「今日から来る人だっけ」
女性の片頬が小さく歪んだ。その表情が彼女にとっての笑顔だと気づいたのはずいぶん後になってからだった。私は思わず後ずさりした。先輩は追いかけるように立ち上がって歩み寄り、片手を差し出した。
「
握手をしようとしていることにやや遅れて気づく。差し出された手をあわてて握った。
「はい! 和田塚です、よろしくお願いします!」
和田塚(わだづか)ちひろ
この物語の主人公。新卒入社3年目のデザイナー。わけあって変わり者だらけの開発チームに参加することに。自分に自信がなく、周りに振り回されがち。
御涼(ごりょう)
物静かなプログラマー。チームではいろんなことに気を回すお母さんのような存在。今後もちひろをよく見て助けてくれる。
私が勤めているのは、100人くらいの社員を擁するベンチャー企業。この会社で飲食店の予約ができるサービスが立ち上がったのがもう9年前らしい。今年度で10年を迎えるから、もうベンチャーと呼ばれる段階ではないのかもしれない。
私は大学を卒業して、この会社に入って今年で3年目になる。最初はエンジニア採用だったけど、今はデザイナーの見習い。OJTの先輩に初日からあきれられるほどプログラミングができず、2年経っても一向に腕が上がることはなかった。
やがてマネージャーに、デザイナーへの転向を打診された。プログラマーとしての見込みがないと会社が見切りをつけたのは、さすがの私も察した。特にデザイナーになりたかったわけではないけれど、モノを作ることに私みたいな素人が関わり続けられるのはありがたくて、一も二もなく受け入れた。
私はてっきりデザイナーといえば、サイトのすてきなビジュアルを表現したアウトプットを作るものだと思っていた。ところが、やることといえば既存の予約サービスのCSSを修正したり、特集ページのHTMLを書いたりに、終始。しかも、私はCSSを全く触ったことがなかったので、これも一からの勉強だった。もちろんむちゃくちゃ時間がかかって、ひたすらチームに迷惑をかける毎日だった。
何をやってもダメで、チームでも完全に浮いていて、ひとりぼっち。私はいくつかのチームを転々としたが、どこへ行っても私が役に立つことはなかった。
モノを作ることに向いてないのかもしれない。さすがにもうやめた方が良いのかなと思い始めた頃、会社のチャットでたまたま流れてきた社内求人の募集が目に入った。
社内のあるプロジェクトが人を、デザイナーを募集しているのだという。ちょっと変わったチームらしく、募集の専用のページを独自に用意して、自分たちの活動を紹介していた。そして、チームメンバーの紹介ページである人を見つけてくぎ付けになった。私の心は決まった。
「どうせやめるなら、最後にここへ行こう。これでダメなら、もうこの業界から離れて、地元の広島に帰ろう」
そう、ひそかに決意した。
いきなり最強チームへの参加
「おはよう」
不意に後ろから声をかけられた。振り向くとぶすっとした表情の、小柄な男性が立っていた。リーダーの鎌倉さんだった。私の返事を聞いたのかどうかわからないくらい反応は薄く、鎌倉さんは所定の場所らしい席に座った。
鎌倉
業界でも有名な凄腕のプレイングマネージャー。冷静で、リアリストの独立志向。ちひろにも冷たく当たるが…
鎌倉さんは社内どころか、会社の外でも有名な人で、いろんなカンファレンスで講演をする、すごいエンジニアなのだという。もっとも私は技術がないので、そのすごさがほとんどわからないでいた...。
鎌倉さんはすぐに仕事を始めるようだった。ノートパソコンを開いて、いきなりキーを打ち始める。さすがに見かねて、御涼さんが助け舟を出してくれた。
「鎌倉さん、今日から配属の和田塚さんです」
「知ってる」
間髪入れずに返事をする。あきらかに機嫌が悪そう。後でわかったのだけど、鎌倉さんはデフォルトがこんな感じの人なのだった。
「デザイナーの募集で、素人が来るとは思わなかった」
どうやら鎌倉さんは、私が出したこれまでの仕事の情報を今更読み直しているらしかった。自分のチームが社内でもツワモノぞろいであることを自負しているらしく、うちに来るからには相当自信があるんだろうと想像していたらしい。
(…そんなの私が出した応募の内容を読んだら、すぐにわかると思うのだけど)
ずいぶん忙しい人らしく、私のことはそれでおしまい。エディタを開いて、プログラミングを始めてしまった。この調子で私の応募もろくすっぽ読んでなかったに違いない。
喉の奥にきゅっと何かが詰まる感じがして頑張って押し流そうしたとき、また新しい声がかかった。
「…どちらさま?」
大きなヘッドホンを耳からはがして、私の反応を待つ人が背後に立っていた。
「あ、和田塚です! このチームに本日からジョインします」
ヘッドホンの人は、軽く会釈した。背が高いので、あんまり頭を下げた感じがしない。
「藤沢です。このチームでリードプログラマーやってます。よろしく」
そう言い放つと、藤沢さんもさっさと自分の定位置に移動した。御涼さんとも軽く挨拶をしている。自分のことをリードプログラマーと呼ぶだけあって自信があふれている感じだ。
藤沢
チームのリードプログラマー。頭の回転が早く、リーダーの意向を上手くくみ取って、チームのファシリテートにもつとめる。
そのとき、視界の端で何かの動きを感じた。いつの間にかこの部屋にやってきていた誰かが着席している。ボサボサの髪に、無精髭。たった今ベットから起きてきましたという感じで、大きなあくびをしている。私の方を見る気配はなかった。
「おはようございます、
藤沢さんがかけた挨拶に、小さく頷く。あくまで声を出さない気らしい。境川さんもまた社内で有名な人だった。口数が少なく、愛想をどこかに置き忘れてきた感じだけど、むちゃくちゃ腕が立つプログラマーだという。天才とは彼のような人を言うのだと、後で御涼さんが教えてくれた。
境川(さかいがわ)
彼の声を聞いた人は数少ない。実は社内随一の凄腕プログラマー。自分の中で妄想を育てていて、ときおりにじみ出させては周りをあわてさせる。
「すいません、遅くなりました。自転車に乗ろうとしたらパンクしてて、直してたら時間がかかってしまって」
最後に勢いよく飛び込んでた、聞き覚えのある声に私は思わず身を固くした。ゆっくりとプロジェクトルームの入り口を見ると、色白でメガネをかけた男性が立っている。何かをカバンの中からせわしなく探そうとしていた、彼もこちらを見て、その手を止めた。
「あれ、和田塚さん?」
ぼう然とする先輩と、先輩を前にして固まったままの私。膠着した状況を打ち壊したのは藤沢さんだった。
「お、片瀬さん知り合いなの?」
続けざまに、黙っていた鎌倉さんも口を開いた。
「先週の定例で話したし、片瀬もそこにいたよな」
このよく物忘れする感じ、私が記憶している先輩と変わらなかった。片瀬さんはこの中で唯一面識がある先輩。かつて、私のOJTをしてくれた人なのだ。
片瀬
インフラエンジニア(元々はサーバーサイドのプログラマー)。他人への関心が薄いケセラセラ。ちひろのOJTを担当していた。
鎌倉さんのチームが普通ではないことくらい私も知っていた。でも、あのOJTの面倒を見てくれた片瀬さんがいてくれるなら、きっと何とかなるんじゃないかと思って、最後の場所として、ここへやって来たのだ。
片瀬さんが来て、チームの雰囲気が少し和やかになった気がした。このタイミングを待っていたかのように、御涼さんが振り返って言葉をかぶせた。
「片瀬くんも来たことだし、朝会やりますか。今日は新メンバーの自己紹介からですね」
いつものことなのだろう。御涼さんの言葉を合図のように、全員立ち上がって、ホワイトボードの前に集まった。こうして、私の最後の現場の、最初の一日が始まったのだった。