成果や正しさだけでは進まない――PMが直面する「壁」にどう向き合うか
明治エコシステムの構築は、中心に「明治会員ID」という統合IDを据えることから始まった。 この統合IDをハブとして、ポイントプログラムやクーポン配信、CRM(顧客関係管理)の仕組みを連携させ、その周辺に多様なデジタルサービスやキャンペーンを配置するというアーキテクチャである。
具体的なサービス展開として、Wellnizeは多角的なアプローチを試みている。例えば、育児層に向けた「赤ちゃんノート」という育児記録アプリは、粉ミルクなどのベビー用品との親和性を活かしたデジタルタッチポイントとなっている。
また、さらに先進的な取り組みとして「Inner Garden」というサービスも立ち上げた。これは、ユーザーに自身の便を郵送して腸内細菌の検査を受けてもらい、その解析結果に基づいてパーソナライズされたココア飲料を届けるというD2C(Direct to Consumer)型のプロダクトである。個人のバイオデータと明治の食品開発の知見、そしてデジタル技術を掛け合わせたこのサービスは、単なる商品販売を超えた「体験の提供」を実現している。
これらのデジタルサービスやキャンペーンを通じて獲得された顧客データは明治会員IDに紐付き、統合的に分析される。そこから得られた顧客インサイトは、新商品の開発や各ブランドの精緻なマーケティング施策へとフィードバックされ、さらに店舗への送客を促してリアルな売上を創出するという好循環を生み出している。
技術的な観点から見れば、クラウドベースのデータウェアハウスや高度なCRMツールの導入がこの基盤を支えているが、木下氏のアプローチの本質は「どの技術を使うか」ではなく、「どのようにして既存のビジネスプロセスにデジタルの血を通わせるか」という点だ。
しかし、プロジェクトの推進プロセスは決して平坦なものではなかった。エコシステム構想を立ち上げた当初、木下氏は社内の各ステークホルダーと粘り強い対話を重ねていた。壮大なビジョンを掲げれば「実行の確実性」を問われ、小さな成功を積み上げれば「事業としてのスケール感」を求められる。そして、会員数が1年で10〜15倍へ急拡大し、目に見える成果が出始めると、今度は「持続可能な質」への期待が高まっていった。
どのような成果を出しても、それぞれの立場や前提の違いから、意見が分かれていく。これは、新しい技術やシステムを導入しようとする際に多くのPMが直面する典型的な「壁」である。技術的に優れており、論理的に正しい戦略であっても、それを受け入れる組織の感情や従来の慣習を無視しては、変革は成し遂げられない。木下氏らは、最新のデジタルマーケティング技術を駆使する一方で、「合理性だけでは動かない組織」をいかに巻き込み、エコシステムという新しい概念を定着させていくかという、極めて泥臭い人間的課題に直面することとなった。
「亀裂」「危機」「調停」を経て、社会の秩序は変化する
明治エコシステムの取り組みは、定量的な面で目覚ましい成果を上げている。本格的な展開を開始してからの1年間で、明治会員IDの数は約15倍という爆発的な成長を記録した。各デジタルサービスのKPIもすべて目標を上回っており、デジタル接点を経由した実店舗への送客効果やクロスセルの基盤が確実に形成されつつある。しかし、木下氏が講演で強調したのは、こうした目覚ましい数値的成果の裏にある、定性的な課題解決のプロセスだ。
木下氏は、立ちはだかる組織の壁を突破するためのヒントとして、文化人類学者ヴィクター・ターナーが提唱した「社会劇」という概念を引用した。 ターナーは、社会の秩序が変化するプロセスを「亀裂」「危機」「調停」「再統合(または分裂)」の4つのステップで説明している。アフリカのマリの村において、出稼ぎで得た資金で井戸を修理した若者の行動が既存の身分秩序(井戸を使う順番)に「亀裂」を生み、村に「危機」をもたらした。しかし、村人たちは「出稼ぎは伝統的な狩猟や交易と同じである」と再解釈(調停)し、新たな秩序(再統合)が生まれた。
ヴィクター・ターナーが提唱した「社会劇」
引用:Turner, Victor.(1974). Dramas, Fields, and Metaphors: Symbolic Action in Human Society. Cornell University Press.
大企業におけるDX推進も、これと全く同じ構造を持っている。新しいデジタル技術やデータ駆動の戦略は、これまで長年培われてきた各ブランドのビジネスモデルや、それを支えてきた担当者の正当性を揺るがす「亀裂」となる。木下氏が直面した「量か質か」といった議論や、アイデアの位置づけをめぐる声は、既存の役割やこれまでの仕事の価値が揺らぐことへの不安――いわば組織に生じた「危機」の現れでもあった。
木下氏はこの危機を回避するのではなく、むしろ直視し、「調停」のプロセスに持ち込むことを選択した。例えば、アイデアの位置づけをめぐって疑問の声が上がったときも正面から論理で押し切るのではなく、「このエコシステムやCRMの仕組みは、あなたがこれまでやりたかったことを実現するための箱(ツール)にすぎない」と意味づけを変えて説明した。
そして、彼らのやりたい施策を実際にデジタル上で展開し、共に数値を追いかけ、成功も失敗も共有するという伴走型のプロセスを徹底した。これにより、ステークホルダーたちは徐々に「この新しい仕組みは自分たちの存在意義を脅かすものではなく、むしろ拡張してくれるものだ」と認識を改めるようになった。論理的な説得ではなく、相手の価値観(コード)に寄り添い、共に「劇を演じる」ことによって合意形成を図ったのである。このプロセスを通じて、明治の組織内に横断的なデジタルマーケティングの土壌が根付き始めたことこそが、最も重要な定性的効果と言える。

