マーケティング×DX?「縦割り組織」を打ち破る「明治エコシステム」の構想
「合理的に話しているのに伝わらない」エンジニアの現場にも蔓延するこの問題に対して、具体的な解決の糸口を提示したのが、株式会社Wellnizeで代表を務める木下寛大氏だ。木下氏は楽天でデータサイエンティストやプロダクトマネージャーとしてキャリアを積み、現在はビジネスコンサルティングとソフトウェア開発を手掛ける株式会社Co-Liftの代表も務めている。
株式会社Wellnizeは、株式会社明治と、株式会社Co-Liftを含むベンチャー企業がタッグを組んで設立したジョイントベンチャーだ。木下氏は、このWellnizeを通じて株式会社明治のマーケティングDXという巨大な変革を牽引している。
明治では、牛乳、チョコレート、乳酸菌飲料、お菓子、粉ミルク、高齢者向け流動食など、さまざまなカテゴリで圧倒的なシェアを持つ国民的ブランドを展開している。全国のあらゆるスーパーマーケットやコンビニエンスストア、ドラッグストアの棚に自社製品が並んでいるという状況は、他の食品メーカーには容易に真似できない強固な事業基盤だ。しかし、この強大なビジネスモデルの裏では、組織の大きさゆえの「縦割り組織」という構造的な課題が潜んでいた。
各ブランドが独立してマーケティングやコミュニケーションを展開しているため、顧客との接点が分断されていたのだ。例えば、日常的に明治の牛乳とチョコレート、さらには乳酸菌飲料を購入している顧客がいたとしても、企業側から見れば「それぞれ別の顧客」として認識されてしまう。もしこれらの購買行動を横断的に捉え、統合的なコミュニケーションができれば、1人の顧客が取引開始から終了までに企業にもたらす利益の総額「顧客生涯価値(LTV)」は飛躍的に向上するはずだ。しかし、社内には横断的なデータ基盤や、ブランド横断でマーケティングを実行する仕組みが存在していなかった。
この状況を打破するため、木下氏らは「明治エコシステム」というコンセプトを掲げ、デジタル上での新たな顧客接点の構築に乗り出した。彼らが立てた仮説は、「バラバラに存在しているブランドの顧客接点を一つの統合IDで束ねることで、巨大なデジタルエコシステムが生まれ、それが新たな顧客体験と強固なデータ基盤の源泉になる」というものだ。
木下氏はこの構想を推進する過程を振り返り、「せっかくこういった強みがあり、牛乳とチョコレートと乳酸菌飲料をすべて揃えてもらえればLTVとしてはどんどん上がっていくにもかかわらず、なかなか横につなげるコミュニケーションができない。そこに大きな課題がありました」と振り返る。この気づきから出発したエコシステム構築の道のりは、単なるシステムの導入に留まらない、組織のあり方そのものを問い直す壮大なプロジェクトの幕開けだった。
成果や正しさだけでは進まない――PMが直面する「壁」にどう向き合うか
明治エコシステムの構築は、中心に「明治会員ID」という統合IDを据えることから始まった。 この統合IDをハブとして、ポイントプログラムやクーポン配信、CRM(顧客関係管理)の仕組みを連携させ、その周辺に多様なデジタルサービスやキャンペーンを配置するというアーキテクチャである。
具体的なサービス展開として、Wellnizeは多角的なアプローチを試みている。例えば、育児層に向けた「赤ちゃんノート」という育児記録アプリは、粉ミルクなどのベビー用品との親和性を活かしたデジタルタッチポイントとなっている。
また、さらに先進的な取り組みとして「Inner Garden」というサービスも立ち上げた。これは、ユーザーに自身の便を郵送して腸内細菌の検査を受けてもらい、その解析結果に基づいてパーソナライズされたココア飲料を届けるというD2C(Direct to Consumer)型のプロダクトである。個人のバイオデータと明治の食品開発の知見、そしてデジタル技術を掛け合わせたこのサービスは、単なる商品販売を超えた「体験の提供」を実現している。
これらのデジタルサービスやキャンペーンを通じて獲得された顧客データは明治会員IDに紐付き、統合的に分析される。そこから得られた顧客インサイトは、新商品の開発や各ブランドの精緻なマーケティング施策へとフィードバックされ、さらに店舗への送客を促してリアルな売上を創出するという好循環を生み出している。
技術的な観点から見れば、クラウドベースのデータウェアハウスや高度なCRMツールの導入がこの基盤を支えているが、木下氏のアプローチの本質は「どの技術を使うか」ではなく、「どのようにして既存のビジネスプロセスにデジタルの血を通わせるか」という点だ。
しかし、プロジェクトの推進プロセスは決して平坦なものではなかった。エコシステム構想を立ち上げた当初、木下氏は社内の各ステークホルダーと粘り強い対話を重ねていた。壮大なビジョンを掲げれば「実行の確実性」を問われ、小さな成功を積み上げれば「事業としてのスケール感」を求められる。そして、会員数が1年で10〜15倍へ急拡大し、目に見える成果が出始めると、今度は「持続可能な質」への期待が高まっていった。
どのような成果を出しても、それぞれの立場や前提の違いから、意見が分かれていく。これは、新しい技術やシステムを導入しようとする際に多くのPMが直面する典型的な「壁」である。技術的に優れており、論理的に正しい戦略であっても、それを受け入れる組織の感情や従来の慣習を無視しては、変革は成し遂げられない。木下氏らは、最新のデジタルマーケティング技術を駆使する一方で、「合理性だけでは動かない組織」をいかに巻き込み、エコシステムという新しい概念を定着させていくかという、極めて泥臭い人間的課題に直面することとなった。
「亀裂」「危機」「調停」を経て、社会の秩序は変化する
明治エコシステムの取り組みは、定量的な面で目覚ましい成果を上げている。本格的な展開を開始してからの1年間で、明治会員IDの数は約15倍という爆発的な成長を記録した。各デジタルサービスのKPIもすべて目標を上回っており、デジタル接点を経由した実店舗への送客効果やクロスセルの基盤が確実に形成されつつある。しかし、木下氏が講演で強調したのは、こうした目覚ましい数値的成果の裏にある、定性的な課題解決のプロセスだ。
木下氏は、立ちはだかる組織の壁を突破するためのヒントとして、文化人類学者ヴィクター・ターナーが提唱した「社会劇」という概念を引用した。 ターナーは、社会の秩序が変化するプロセスを「亀裂」「危機」「調停」「再統合(または分裂)」の4つのステップで説明している。アフリカのマリの村において、出稼ぎで得た資金で井戸を修理した若者の行動が既存の身分秩序(井戸を使う順番)に「亀裂」を生み、村に「危機」をもたらした。しかし、村人たちは「出稼ぎは伝統的な狩猟や交易と同じである」と再解釈(調停)し、新たな秩序(再統合)が生まれた。
ヴィクター・ターナーが提唱した「社会劇」
引用:Turner, Victor.(1974). Dramas, Fields, and Metaphors: Symbolic Action in Human Society. Cornell University Press.
大企業におけるDX推進も、これと全く同じ構造を持っている。新しいデジタル技術やデータ駆動の戦略は、これまで長年培われてきた各ブランドのビジネスモデルや、それを支えてきた担当者の正当性を揺るがす「亀裂」となる。木下氏が直面した「量か質か」といった議論や、アイデアの位置づけをめぐる声は、既存の役割やこれまでの仕事の価値が揺らぐことへの不安――いわば組織に生じた「危機」の現れでもあった。
木下氏はこの危機を回避するのではなく、むしろ直視し、「調停」のプロセスに持ち込むことを選択した。例えば、アイデアの位置づけをめぐって疑問の声が上がったときも正面から論理で押し切るのではなく、「このエコシステムやCRMの仕組みは、あなたがこれまでやりたかったことを実現するための箱(ツール)にすぎない」と意味づけを変えて説明した。
そして、彼らのやりたい施策を実際にデジタル上で展開し、共に数値を追いかけ、成功も失敗も共有するという伴走型のプロセスを徹底した。これにより、ステークホルダーたちは徐々に「この新しい仕組みは自分たちの存在意義を脅かすものではなく、むしろ拡張してくれるものだ」と認識を改めるようになった。論理的な説得ではなく、相手の価値観(コード)に寄り添い、共に「劇を演じる」ことによって合意形成を図ったのである。このプロセスを通じて、明治の組織内に横断的なデジタルマーケティングの土壌が根付き始めたことこそが、最も重要な定性的効果と言える。
「合理性が必ずしも正当性を意味しない」組織で私たちはどうするか?
本事例から得られる最も本質的な教訓は、「合理性が必ずしも正当性を意味しない」というビジネスの冷酷かつ普遍的な事実である。ITエンジニアやプロダクトマネージャーは、データや技術的優位性、経済合理性といった「論理的なコード」を重んじる傾向にある。しかし、組織を構成する個々の人間や部門は、それぞれ異なる「正当性のコード」を持っている。それは過去の成功体験であったり、部門内の力関係であったり、あるいは個人のプライドであったりする。
木下氏は、予算やKPI、社内外の評価といったものはすべて「正当性を配分する装置」として機能していると指摘する。DXやAI導入といった変革は、既存の正当性配分システムを破壊する行為に他ならない。したがって、抵抗や反発が起きるのは当然の現象である。変化に伴う「亀裂と危機」を恐れず、相手が何を「神聖な井戸」として守ろうとしているのかを見極める洞察力が、これからのリーダーには不可欠である。
非合理的な感情や組織の慣習を「くだらない」と切り捨てるのは容易い。しかし、本気で変革を成し遂げようとするならば、人間社会の非合理性を前提とし、自らもその「社会劇」の登場人物として役を演じ切る覚悟が求められる。相手のコードを理解し、新しいテクノロジーが既存の価値観を補完・拡張するものであるというストーリーを再構築する「翻訳力」と「調停力」こそが、プロジェクトを成功に導く最大の鍵となるのだ。
泥臭く、人間的で、面倒くさい合意形成のプロセスこそ最も代替不可能なスキル
明治エコシステムは現在も急速な拡大を続けており、今後は蓄積された膨大なデータを活用したさらなるパーソナライズ体験の提供や、ブランドの垣根を越えた新たなビジネスモデルの創出が期待されている。しかし、どれほど技術が進化し、AIが高度な分析を瞬時に行うようになっても、最終的な意思決定を下し、組織を動かすのは人間である。
木下氏は講演の終盤で次のように語る。「人間は面倒くさい。ただ、面倒くさいからこそ人間に向き合う価値が高まっていく。面倒くさくないことはAIがやってしまうので、我々に残されるのは面倒くさいことしかない」
異なる価値観を持つステークホルダーの間に立ち、対立を恐れずに新しい秩序を作り上げていく。この泥臭く、人間的で、そして面倒くさい合意形成のプロセスこそが、今後のプロダクトマネージャーやITリーダーに求められる最も代替不可能なスキルである。技術の波に翻弄されるのではなく、人間の複雑さを愛し、したたかに劇を演じることで、真の変革を推し進めていってほしい。
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