ビジョン先行型の開発で陥りがちな「ビルドトラップ」とは?
予測不可能なVUCA時代を生き抜くため、「まずは子どもたちが効率的に基礎学力を習得できるようになり、それにより余った時間を『社会でいきる力』を身に付けるための学びに活用することを想定している。私たちは、それぞれに向けたプロダクトの提供を目指している」と江波氏は説明する。現在は前者の「基礎学力の効率的な習得」に集中しており、そこに該当するプロダクトが個別学習型のAI先生「atama+(アタマプラス)」だ。
「atama+」はAIが一人ひとりの得意や苦手、進捗などの情報を収集・分析して個別の専用カリキュラムを提供するという学習塾・予備校向けのSaaS型のサービス。また、2020年7月から駿台予備校とともに開始した「オンライン模試」の分析結果と連携することで、効率的に学びを加速させる仕組みを構築した。2021年1月現在、「atama+」は全国の塾・予備校トップ100の約3割に導入され、2,100教室以上で活用されている。
この「atama+」の開発環境について江波氏は、「より良いプロダクトを作る意識が組織全体に浸透していることが大きな強み」と語る。事実、Slackに投稿されるプロダクトに関するフィードバックやアイディアは年間3,000件を超え、エンジニアを含めた社内メンバー全員が導入塾を訪問し、生徒の活用状況を観察したり、ユーザーインタビューを実施したりするなど、実際にプロダクトが活用された現場を理解することがカルチャーとして根付いている。コロナ禍においても、塾の協力によりZoomで授業を中継してもらい、現場訪問の機会を作り続けている事実からも、会社がいかに現場やプロダクトを大事にしているかが伝わってくる。
また、江波氏は「現場を最重要視していることからプロダクト・サービスのペインを発見・収集しやすくなっているのはもちろん、カスタマーサクセスの体制が充実していることにより、顧客からのフィードバックや要望が集まりやすい」と述べる。そして「プロダクト開発に直接携わるメンバーだけではなく、ビジネスチームやコーポレートチームまで含めた全員でプロダクトづくりに取り組むカルチャーによって、機能改善や新機能のアイディアが豊富に得られる。さらに、“Wow students.(生徒が熱狂する学びを。)”に向けて全力で取り組むカルチャーが醸成されているからこそ、技術的にも難易度の高いプロダクトをすばやく届けることができる」と胸を張った。
こうしたビジョン先行型の開発は、ある意味とても理想的に見える。その一方で「だからこそ、『ビルドトラップ』に陥るリスクもある」と江波氏は語る。ビルドトラップとは、書籍『プロダクトマネジメント』(オライリージャパン、メリッサ・ペリー:著、吉羽龍太郎:翻訳)内で登場する言葉で、組織がアウトカム(成果)ではなく、アウトプットで成功を計測しようとして、行き詰まってしまう状況を指す。つまり、実際に生み出された価値ではなく、機能の開発とリリースに集中してしまうということだ。
では、ビルドトラップに陥っていると具体的に何が起きるのか。江波氏は次の例を紹介した。
- 顧客・社内外のステークホルダーの意見や要望をそのまま受け入れる。
- 目に付いた課題をピックアップし、その解決策を考える。
- 良さそうなアイディアを受け入れ、そのまま開発に着手する。
- 「こうしたい・こうあるべき」に愚直に従って機能を開発する。
「これらはいずれも『作ること・届けること』に目が向いており、実際に生み出される(であろう)価値や成果に目が向いていない」と江波氏は指摘する。
「デュアルトラックアジャイル」で潜むリスクを早期に回避
それでは、どうすればビルドトラップを避けられるのか。江波氏はatama plusが実践する工夫とチャレンジについて次の3つを紹介した。
まず1つ目が「デュアルトラックアジャイル」だ。「ディスカバリー(課題発見)」と「デリバリー(開発)」の両方のトラックを並行して行う開発手法であり、同社では(プロダクト)ディスカバリーを「アイディアの妥当性の検証プロセス=アイディアの構築→検証→学習→意思決定・判断」と位置付けている。無駄を減らし、組織のROIを高めることが目的だ。
リリースしてみたものの課題解決につながらない、使われない、すなわち成果(アウトカム)につながらないのはままあること。しかし「全力」で作った後に判明することは最もコスト高な手痛い学習であり、避けたいものだ。そこで、アイディアに潜むリスク(=不確実性)を早期に発見し、成果につながらない「無駄」への投資を最小化するようにしている。
atama plusでは、職能横断チームによるデュアルトラックアジャイルを採用している。前述の「オンライン模試」では、「紙の模試と比べて問題が見にくい・解きにくい」という最も重要な課題に対し、以下のようなアプローチでプロダクト開発を進めた。プロダクトオーナーが持っている課題解決のアイディアをそのまま実装するのではなく、まずはチームメンバー全員で手書きによるアイディア出しと各アイディアに対する評価を行い、最初に構築するプロトタイプの方針を決定した。決めた方針に従って必要最小限のプロトタイプを構築し、ユーザーテストを行ってその様子をチーム全員で観察した上で、そこからの学びをチーム全員でシェアしながらネクストアクションの意思決定を行った。とは言え、一度で実装の意思決定に至るケースはほとんどなく、プロトタイプ構築からの観察、結果と学びのシェアを何度か行うことになるという。繰り返すうちに明確なアイディアに結実し、そこで初めてデリバリーの意思決定がなされて実装フェーズへと移行していく。
このアプローチにより最短距離で成果が上がり、結果的に生徒から「オンライン模試のほうが、紙の模試よりも使いやすい」との評価を得るに至ったという。江波氏は「これはあくまで一例であり、取り組む課題の内容に応じてやり方も変えていく。さまざまな方法で、アイディアの妥当性を事前に検証することが大事」と語った。
また、プロダクトディスカバリーにおける重要ポイントとして「必要最低限のプロトタイプを用いて現場や実ユーザーでの検証を重ね、求めるアウトカムにつながるか否か、見落としているリスク(不確実性)がないかをシビアに評価することが大事。アイディアの棄却はもちろん、時には取り組む課題自体を棄却することもある」と説明した。
そして「現場のリアルの前に、それまでの自分の仮説やこだわりを軽やかに捨て、大胆に方向変換できるしなやかさを持つ」というatama plusのカルチャーコードを紹介し、「私たちのプロダクト開発において現場のリアルは何よりも大切なもの。リアルを起点にアジャイルに開発を進めることを組織として大切にしている」と語った。