スタッフエンジニアという新しいキャリアパス
増井氏は、インターネット黎明期から活動を続けるベテランエンジニアである。masuidriveの名で知られ、キャリアの出発点は高校2年生。以来30年以上にわたり、フリーランス、スタートアップ、プロダクト開発、オープンソースと、多岐にわたる現場でコードを書き続けてきた人物だ。特に近年は、自宅の風呂に浸かりながら開発作業を行うスタイルが話題となり、「風呂グラマー」の愛称でも広く知られている。
増井氏のエンジニアリングの軸足は、Webサービスからハードウェア、そして最新のAI技術にまで及ぶ。iPhoneアプリ黎明期からプロダクトを手がけ、PukiWikiなどのオープンソース開発にも早くから関与してきた。プロダクトそのものを開発するだけでなく、それを組織としてどう育てるか、技術をどう位置づけるかといったメタ視点での議論にも積極的に関わってきた経歴を持つ人物でもある。

そんな増井氏が今回のセッションで焦点を当てたのが、「スタッフエンジニア」のロールである。シニアエンジニアのさらに上位に位置し、マネジメントとは異なるベクトルで組織に貢献する存在だ。実装力に加え、技術的判断力、戦略的視野、影響力、さらには技術文化の醸成といった広範な視座が求められる。
増井氏はこの概念を広く伝えるべく、『スタッフエンジニア マネジメントを超えるリーダーシップ』において監修および解説を担当した。同書の半分以上はインタビューで構成されており、日本語版では日本人のスタッフエンジニアや、類似する役割を担う人物への独自取材も追加されている。
日本においてキャリアの選択肢が「人をマネジメントする」「プロダクト側に回る」「フリーランスになる」の三択に集約されがちな中で、スタッフエンジニアという新しいエンジニアリングの道をどう定義し、どう実践するか。増井氏は、個人が書いたコードやスキルの"足し算"ではなく、チームやプロダクト全体への"掛け算"で価値を生み出す存在として、この役割を提示した。

スタッフエンジニアという言葉を初めて耳にしたとき、多くの日本人エンジニアが戸惑うのは、その名称の印象にある。日本語で「スタッフ」と聞くと、店舗のアルバイトや一般社員を連想することが多く、上級職というニュアンスからは程遠い。しかし増井氏によれば、「スタッフ」という言葉の本来の意味は軍事用語に由来し、「参謀」のことを指すという。将軍や指揮官を補佐し、作戦計画の立案や戦術的判断を担う存在。つまりスタッフエンジニアとは、技術を軸に経営層やマネジメント層を支え、組織やプロダクトの戦略遂行を技術面からリードする役割なのだ。
この用語は、アメリカでは1990年代から軍事的文脈をベースに用いられ、ソフトウェア業界では2000年代以降に徐々に定着していった。増井氏自身も、米国企業で働いていた際にこの言葉に出会ったが、当時は深く理解していなかったと振り返る。「すでにスタッフエンジニアという言葉が英語圏で流通していたので『スタッフエンジニア』という原語をそのまま残すことにした」と、その内情を明かした。
では、スタッフエンジニアの実態とは何か。単なる肩書きではなく、その本質は「コードと戦略の両輪」を担うことにある。チームの一員として現場のコードに関与しつつ、同時に技術的な意思決定や経営層との連携、技術文化の醸成といった上位視点の業務にも深く入り込む役割だ。
ここで重要となるのが、いわゆる「マネージャー職」との違いである。マネージャーは人の管理を主とするが、スタッフエンジニアはあくまで技術に軸足を置き、組織全体の技術力や生産性の底上げに貢献する存在として機能する。
「この役職は、おおよそ業務時間の3割から5割程度を実装に費やし、残りを組織やプロダクトの支援に振り分ける、ハイブリッドな役割を持っている」と増井氏は説明した。