普段意識しない常識
受話器は耳につけて話をする機械ですよね。キーボードは手の指で叩きますね。当たり前のようですが、「なぜ?」と考えることはあまりないものです。
――なぜ、受話器は耳につけるのでしょうか?
それは音は耳で聞くからです。
――なぜキーボードは手の指で叩くのでしょうか?
それはたくさんのボタンを叩くのに手の指が一番都合がいいからです。
極々当たり前の答えが出ました。ほぼこれは人間という生物の絶対常識と呼んでいいと思います。当たり前だからこそ、普段そんなに考えることはないんですね。
前回、世界のどこに行っても変わらない常識を「絶対常識」と呼ぶことにしました。1+1=2などがそうです。絶対常識には、数学的、物理的、生物的、歴史的など、いくつかのカテゴリーがありそうです。ここでは生物的な視点からエンジニアの役割を考えてみたいと思います。
エンジニアと五感
ここでいう生物とは……。そうです、人間です。人間の体の構造は、概ね共通の要素があります。この絶対常識的要素が強い事実を前提にすればいい機器ができそうです。
五感は人間の根源的な機能です。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。このすばらしい生物センサーをITに使うことはできないでしょうか。
馴染み深い例として、読者のみなさんの多くが普段やっている「デバッグ作業」を取り上げてみたいと思います。
視覚
通常、これに頼りっきりですね。ソースを目で見て判断をします。
触覚
低周波治療器をPCに接続して、ピクピク感でデバッグするのはどうでしょう? ブレークポイントならぬピクピクポイントをソースに設定すると、電気が流れてピクっとくる仕組みです。みんなで体をピクピクさせてる職場、これは面白そうですね。でもハード設備が大変そうです。
嗅覚
「どうもこの関数がクセ~な」。バグの潜んでいそうな関数からニオイが発せられたら面白いですね。しかし、ピクピクより装置が大変そうです。
味覚
「しょっぱいプログラムだな~」。プログラムソースによって味が違うのです。「このソースは○○味だな」という会話が中高年エンジニアの方にはウケそうですね。でも技術的に厳しそうです。
聴覚
残るは聴覚です。パソコンにはスピーカーやヘッドフォンジャックがすでに付いているので、これは現実的ですね。ブレークポイントでプログラムを停止させて視覚で確認する代わりに、スピーカーから音を鳴らして聴覚で確認するのです。Beep命令を一行入れて、そこを通るたびに「ピッ」と鳴るのはどうでしょう?
これはイケそうです。
ブレークさせなくても、音が鳴ればそこを通過したことが確認できます。複雑な条件分岐のデバッグで使えそうです。負荷の重い処理のチューニングにも使えそうです。「ピピッ………ピ」なら、最初と2番目のBeepの間の処理は比較的軽く、2番目と3番目の間の処理が重そうだと分かります。「ビ~~~~~~」だと、ループが激しく回っていることが分かります。
筆者は20年以上、聴覚デバッグを実際に活用しています。たまに「うるさい」と怒られますが、一度この直感的な方法を知ってしまうとやめられません。
人間工学に基づいた設計
「人間工学に基づいた○○採用!」。そんなキャッチフレーズの機器が80年代から目立ち始めました。まさに生物としての人間に機械を合わせよう、という発想ですね。ステップスカルプチャーキーボードもその1つです。キーボード面に傾斜が付き、指の自然な動きにフィットさせようというものです。
筆者が最初に触ったのは日立ベーシックマスターレベル3の新モデル「ベーシックマスターレベル3 Mark II」でした。前モデルと比較して、明らかにキーボードの方から指に吸い付いてくるような錯覚を起こしたのを覚えています。現在のキーボードは特殊なものを除き、ステップスカルプチャーや、シリンドリカルステップスカルプチャーが当たり前になっています。
では人間の体に合わせるほど使いやすくなり、よい製品となり得るのでしょうか? みなさんご存知のマウスって、ほとんど手のひらサイズの半卵型ですよね。これをもっと人間の体にフィットさせて使いやすくできないでしょうか。
そこで登場したのがエルゴノミクスマウスです。エルゴノミクス(人間工学)に基づいたマウスで、だいぶ以前から様々な製品があります。人間が自然に手を置いた形にフィットするデザインになっており、より卵型に近いものや、外殻の割れた巻貝のような形のものもありました。
実際に操作してみると、確かに「お!」と思います。いつも使い慣れているマウスと違う、という意味での違和感を差し引いても、手にフィットするその感触に「お!」という声が漏れます。しかし使っていくうちにそれ以上は快適にならない限界点を感じることがあります。意外に重かったり、フィットはするけど自由に動かしにくかったり……。結局、シンプルな半卵型に戻してしまった、なんて人も多いのではないでしょうか。エルゴノミクスマウスが登場しては消えていく中、半卵型マウスは変わらず主流のままのようです。
バット、ゴルフクラブ、刀。どれも直線的なものが主流で、手にフィットするようなウニョウニョしたグリップ形状は主流にはなっていません。ピアノの鍵盤は400年近く経った今でも直線です。
では生物としての人間に機械を合わせたほうがいいの? 合わせないほうがいいの?
隙間がもたらす自由度
どうやら、隙間による自由度に鍵がありそうです。フィットはしていなくても、程よい隙間があると、人はその自由度の中で操作を支配していくようです。ぴったりフィットしていると、その自由度が狭められるようです。確かにステップスカルプチャーキーボードと手の間には隙間がありますが、エルゴノミクスマウスには隙間が少ないですね。
生物としての人間に「ピッタリ」ではなく、「ある程度」合わせ、自由度を残す、これが使いやすい機械を設計するポイントのようです。
「慣れちゃえば関係ないじゃん」 この便利なセリフに頼らないエンジニアでありたいですね。ユーザーは人間という生物であること、今後の連載で触れていく相対常識などを意識して設計にあたりたいものです。
ハードウェアとITの共通点
さて第3回も終盤です。ITと言いながらハード寄りの話が多いことに気付かれると思います。ハードとITは同じであると、筆者は考えています。人が便利になるための技術、という意味では同じベクトルを持つからです。
Windowsの画面にはボタンがあったり、枠があったり。これって現実世界をバーチャル化したものですよね。DOSの時代はコマンド操作でした。少しでも使いやすくするために、DOS上アプリはメニューを選択式にしたり、カーソルキーとテンキーで表の数値入力ができるようにしたり、「人間寄り」のインターフェース設計に苦心しました。
その延長線上にWindowsのインターフェースがあります。さらにその先には現実世界のハードウェアそのものがあるのでしょう。
だから、ITエンジニアの仕事を語る上で、ハード機器から常識を考えることはとても重要なのです。これからタッチパネルインターフェースが台頭してきます。より現実世界のハードウェアに近づこうとしています。さらに電子ペーパー、ユビキタス社会と、バーチャルと現実の距離が縮まってきます。
どうか、ユーザーは人間である、という本質を見失わないでください。誰が使っても「便利だね~」と言えるものを作っていきましょう!