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ニーチェのニヒリズム哲学で「現代テクノロジーと人間の関係」はどのように捉え直せるのか?

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 ドイツの哲学者で、あらゆる物事に本質的な価値はないとするニヒリズム(虚無主義)を探求したニーチェ。ニーチェのニヒリズムを用いて「現代テクノロジーと人間の関係」を捉え直すと、人はテクノロジーとどのように向き合えるようになるのでしょうか。この哲学的な試みを論じた『ニヒリズムとテクノロジー』(翔泳社)から、著者のノーレン・ガーツが本書で描こうとするテーマを紹介します。

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本記事は『ニヒリズムとテクノロジー』の「第1章 ニーチェなら現代テクノロジーをどう見るか?」を抜粋したものです。掲載にあたり一部を編集しています。

テクノロジーは人を「解放」するか

 リビングで家族がくつろいでいる。母親と娘はソファにすっぽりと収まり、そこにもとからいた父親は居場所を乗っ取られそうになっている。娘は幸せそうにペットの犬を眺め、その犬はおもちゃを噛みながらソファの周りを警備するのに忙しい。この幸せな家族が幸せにくつろぐ、幸せな家庭の幸せなカーペットのすぐそばの床に、ホッケーのパックを大きくしたような機械が鎮座している。黒いその機械は、陽光に包まれたあたりの雰囲気に対して、無機質な対照をなしている。その機能はよくわからないが、この機械がこの家族をこれほど幸せにできるところを見ると、この機械がなければこの家族の幸せはきっと消えてしまうのだろう。

 これはルンバ(Roomba)のことだが、私は掃除機を宣伝したいのではない。まず言及したいのは、テクノロジーのトレンドの宣伝に関することである。ルンバのような現代のテクノロジーは、どんどん普及が進んでいるために、広告主はほんの少しヒントを与えるだけで、そのテクノロジーが実現する暮らしを提案することができる。ルンバの広告は、画像だけで皆に知ってもらいたいことがすべて伝わるので、文字も必要ない。部屋の片隅にあるホッケーのパックを大きくしたような黒いやつが働いてくれるので、私たちは働かずにすみ、その代わりに娯楽にいそしんで、人間でいられる幸せを味わえる。

 ここではこれを、テクノロジー・デザインにおける「解放としての余暇」のトレンドと呼ぶ。このトレンドの裏にある発想はいたってシンプルだ。私たちを雑事から解放し、私たちが人間でいるために必要な余暇の時間を持てるようにすることこそが、テクノロジーの役割だということらしい。これは、ルンバだけに見られる発想ではなく、オンラインショッピングや音声アシスタント、予測アルゴリズム、あるいは自動運転車、自律動作ロボット、自律制御ドローンの開発にも見られる発想だ。テクノロジーが私たちに代わって掃除をして、買い物をして、天気をチェックして、文章を書いて、車を運転して、労働を肩代わりして、場合によっては人を殺してもくれるかもしれない。

 テクノロジーにできることがこんなにも増えているので、私たちはどの仕事が人間のしなければならない仕事として残されているのか、疑問に思い始めている。言い換えると、テクノロジーは恐るべきスピードで進歩し、人間に代わって仕事をこなす能力が上がり続けているのに、人間がテクノロジーと同様に進歩していて、テクノロジーにどっぷり依存しなくていいくらい高い能力を身につけているとは言いがたい、ということだ。

 繰り返すが、テクノロジーの能力が高まるにつれ、テクノロジーは私たちの日常にどんどん入り込んでくるようになり、どこまでがテクノロジーで、どこからが人の仕事かますますわからなくなっている。テクノロジーは人と無関係に進歩できるとか、何もかもテクノロジーまかせにできるようになると考えるのはおそらく間違いで、人とテクノロジーの区別は単純に二元論的な考え方では説明できないものだろう。

 テクノロジーに対する現代の考え方──デザイン面でも、哲学的な観点でも──では、人とテクノロジーは区別して考えるものではなく、「テクノロジーは常に人の暮らしを形づくる役割を果たしてきたもの」と捉えられている。テクノロジーがなければ自分らしくいられないわけではない。テクノロジーが人を、映画『ウォーリー』で描かれていた役立たずのデブに変えてしまうのではないかと心配するのはやめた方がいい。それよりも、『2001年宇宙の旅』で描かれていたように、先史時代の祖先の発見した道具と、現代の宇宙開発はつながっていることを認識した方がいい。

 テクノロジーは常に人類の発展の一部だった。それを踏まえて、テクノロジーが人に及ぼす作用を心配する前に、テクノロジーのことをより深く理解しようと努め、より積極的にそのデザインに関わる努力をすべきだろう。なぜなら、好むと好まざるとにかかわらず、テクノロジーはこれまでも、これからも、人類の発展の一部であり続けるのだから。

 現代のテクノロジーに対するこの考え方は、決してテクノフィリア(新技術への強い傾倒)を応援するものではない。テクノフォビア(科学技術恐怖症)から1歩引いてみよう、というものだ。この立場を取る現代の思想家たち──ピーター・ポール・フェルベーク、シャノン・ヴァラー、ルチアーノ・フロリディ、ブルーノ・ラトゥールなど──であれば、自分たちは単なるテクノリアリスト(現実に即してテクノロジーを冷静に判断する立場)だと主張するだろう[それぞれの人物の主張は後述]。テクノロジーを愛したり嫌ったりしても役に立たないのだから、それよりも、自らテクノロジーを学んだり、開発者と関わってデザイン・プロセスに積極的に参加したりすべきというわけだ。

 だが、そうした研究や開発に積極的に関わっていくには、必然的にテクノロジーについてじっくり考える時間とエネルギーが必要だ。別の言い方をすれば、そのために私たちを解放してくれるテクノロジーを開発しなければならないように思える。そしてゆとりの時間を持ち、テクノロジーについて考えて、私たちを解放してくれるテクノロジーを開発し、それによってゆとりの時間を持ち……。

 一方、過去のテクノフォビアの思想家たち──ジャック・エリュールやマルティン・ハイデガー、ヘルベルト・マルクーゼ、ルイス・マンフォードなど──が問題にしたのは、テクノロジーが人類の発展に貢献するかどうかではなかった。問題なのは、「〇〇をするために」という現代のテクノロジーに対する見方が人類の発展を歪めてしまう可能性がある、という点だった。現代のテクノロジーは、私たちが目標に到達する手助けを目指しているようには思えない。それよりむしろ、人の代わりに目標を定めたり、テクノロジーがその目標に到達するには、人の手助けが必要な目標を人間に提示したりすることを目指しているように思える。

 だからルンバの所有者は、ルンバが「好きなやり方」で働けるように自宅を整理整頓しなくてはならない。ちょうどスマートフォンの所有者が、電池残量と通信量の上限に合わせて自分たちの活動を組み立てなければならないのと同じように。確かに私たちは、自分のニーズに合うデバイスを購入している。だがひとたび購入すると、そのデバイスに夢中になるあまり、デバイスに働き続けてもらえるよう新たなニーズをつくり出しては、デバイスへの思いを長続きさせようとしているのではないだろうか。

 テクノロジーは人にゴールを示し、人の活動を形づくるだけでなく、私たちの価値観に影響を及ぼしたり、新たな判断を生み出したりできる。効率や客観性といった価値においては、テクノロジーの方が人間より優れていると考えざるを得ない。そのために人は自分たちの問題は置いておいて、技術的な解決策ばかりに目を向けがちだ。さらには、人間は非効率で偏りがあるから、より信頼性が高いテクノロジーに置き換えるべき問題児である、と自分たちのことを卑下する傾向が高まりつつある。

 同様に、ソーシャルメディアの利用により私たちは、プライバシーや友達の価値を常に定義し直し続けている。フェイスブック(Facebook)もコミュニケーションの一手段であるからには、ほかのコミュニケーション手段と同様、プラスとマイナスの面があると人は思いたいのだ。

 現代の思想家たちは自分のことをテクノフィリアではなく、テクノリアリストだと考えているだろうが、それと同様に、過去の思想家たちも自分のことをテクノフォビアとは思っておらず、テクノリアリストだと考えていたはずだ。テクノロジーの利点と考えられていることに疑いを持つと、ラッダイト[19世紀初頭のイギリスで機械化に反対した熟練労働者の組織]や恩知らず、あるいはパラノイド的な陰謀説支持者とみなされるかもしれない。

 そのような理由もあって、以前の思想家たちはおそらく、テクノフォビアという表現が出てきたこと自体が、現代のテクノロジーが私たちに及ぼす影響の予兆だと匂わせていた。つまり、現代の思想家たちは過去の思想家たちを、「テクノロジー的」であることの意味を理解していないと批判するのに対して、過去の思想家たちは現代の思想家たちを、「人間的」であることの意味を理解していないと非難するだろう。

 これら2つの見方の対比は、単に難解な理論の反駁ではない。テクノロジーが人の暮らしにどのような影響を及ぼすかを決めるプロセスに、積極的に関与できるのに、テクノロジー企業を人類の敵とみなしてしまうと、テクノロジーの開発を私たちと一緒にではなく、テクノロジー企業で勝手に進めることを許してしまうリスクを冒すことになる。

 その一方で、テクノロジーが私たちの目標、価値観、判断を知らず知らずのうちに歪めているのであれば、テクノロジー企業と結託すればするほど、人々はテクノロジー的な考え方に洗脳され、結果的にテクノロジーに対して批判的な目を向けられなくなる。だから、テクノロジーは人間性を抹殺するような余暇を提供するものではなく、「解放としての余暇」を与えてくれるものだと確信するためには、どちらの見方が正しいのか真剣に考えなくてはならない。

本書の概要

 この本は、人間のニヒリズムがどのようにテクノロジー的になったか、またテクノロジーがどのようにニヒリスティック(虚無的)になっていくかを探究することを目指している。テクノオプティミスト(テクノロジー楽観主義者)vs.テクノペシミスト(テクノロジー悲観主義者)の、延々と続く、テクノロジーの進歩によって人がよりよくなるか、より悪くなるか、という議論からは離れたいと思う。それよりも、「進歩」「よりよい」「より悪い」といった概念をどう定義するかを深く掘り下げていきたいと思っている。

 そして、そうしたイデオロギーがもたらす世の中の結果を、テクノロジーがどのように形づくるか、イデオロギーがどのように定義されれば、そうしたテクノロジーが生まれるのかを突き詰めて考える方向に読者を誘っていきたい。

 本書では第2章で、ニヒリズムとは何か、つまりニヒリズムが意味することを説明するところから始め、ニヒリズムを過小評価してはいけない理由を示していく。ニヒリズムは、単に恵まれないティーンエイジャーの悩みなどではない。ニヒリズムは日常の暮らしにあまりに蔓延してしまったために、サルトルなどの実存主義の哲学者は、ニヒリズムを「人生のことなんてどうでもいい」と思うような人たちが体験するものにすぎない、と簡単に考えるようになってしまった。その結果、「人生を大切に生きている」と考える生き方でさえニヒリスティックである、という可能性を認識できなくなっている。

 日々の暮らしに蔓延するニヒリズムが認識できれば、ヨーロッパの歴史、とりわけキリスト教道徳の歴史にニヒリズムが果たした役割に関するニーチェの主張が、よりわかるようになるだろう。ニヒリズムと道徳は昔から深い関係にあったとニーチェは主張した。自己犠牲や禁欲を高く評価する価値観はニヒリスティックで本来の自分を失わせるものだと、ニーチェは私たちに「価値観の価値」を見直すよう促している。

 ニーチェの主張は、今のテクノロジー社会には当てはまらないと考える人がいるかもしれない。しかし、トランスヒューマニズム[詳しくは第2章を参照]を掘り下げていけば、トランスヒューマニズムが提唱する「ポストヒューマン」がいかにニヒリスティックかが見えてくるだろう。そしてそのためには、ニヒリズムに対する理解が欠かせないことがわかるだろう。

 第3章では、ニヒリズムの思想を掘り下げることから、テクノロジーの思想を掘り下げることへ移っていく。ハイデガーの『技術への問い』は現代のテクノロジー思想家にとって通過儀礼となっており、自分がテクノフォビック(科学技術恐怖症的)な決定論者ではないことを信じてもらうためには、どうしても『技術への問い』を批判しなければならない。

 そこで、私もそうすることにする。私は別に、ハイデガーを攻撃して自身の見解に対する不安を和らげたいわけではない。ハイデガーの技術思想がいかにニーチェのニヒリズム哲学と同じ方向を向いていて、それでいてニーチェのニヒリズム哲学とはまったく違うものであることを示したいと思っている。体制順応的な社会を導いている現代のテクノロジーに関するハイデガーの懸念は、ニヒリズムとテクノロジーの関係についての議論と同じように読み取れる。

 だがニーチェと違って、ハイデガーはマルクスと同様に人間がその運命を実現できないのは、技術の外的影響のせいだと非難するところで終わっている。これを補い、かつ現代的な技術哲学に触れるためにも、ハイデガーの次にドン・アイディの意見を見ていきたいと思う。なぜならアイディの技術思想は、ハイデガーの思想から、哲学的に問題があり政治的に危険でもある運命論の部分を取り除き、技術利用に関する有益な洞察だけを取り出して論じようとしているからだ。

 アイディが「ヒューマン─テクノロジーの関係」と呼ぶ彼の分析を見ると、ニーチェのニヒリズム哲学と融合できそうな部分があり、私が「ニヒリズム─テクノロジーの関係」と呼ぶものを考える際の参考になる。

 第2章、第3章で本書のテーマの理論的基盤を固めたことを受けて、第4章では「テクノロジー催眠」と表現できそうなニヒリズム─テクノロジーの関係に、この理論的枠組みを適用して掘り下げてみたい。自分自身を眠らせようとする人の行動、たとえば瞑想や飲酒などの行動を「自己催眠」とするニーチェの分析についてまず議論し、続いてこの分析がどのようにテクノロジーにも当てはまるかを示す。

 「(耐えがたい苦痛を)意識から消し去ろうとする」というニーチェの言葉は、テレビやエンターテインメントのストリーミング、AR(Augmented Reality:拡張現実)やVR(Virtual Reality:仮想現実)デバイスなどのテクノロジーが持つ催眠性の魅力を考えたときに、響くものがあるのではないだろうか。そのあと、そうしたテクノロジーには人をリラックスさせる効果があるだけでなく、自分の現状に満足させ、スクリーンを見る暮らしに満足させる働きがあることを示し、テクノロジー催眠の危険性を提起してこの章を終えたい。

 第5章では、本書で「データドリブンな活動」と呼ぶニヒリズム─テクノロジーの関係を取り上げる。現代人は、テクノロジーを利用して自分を常に忙しくさせ、規律に当てはめ続けていないだろうか? 自らが意思決定をすることの重荷を避けようとする行動、命令やルーティンに従うような行動を「機械的活動」と呼ぶが、こうした活動に対するニーチェの分析は役に立つ。フィットビットやポケモンGOの利用、ますます拡大するアルゴリズムへの依存を考えれば、人がいかにこうしたテクノロジーに頼って意思決定の負担を避け、自分に代わってテクノロジーに意思決定してもらっているかがわかる。

 たとえば、アルゴリズムは私たちについてどれくらい多くの情報を集めているのか? その一方で、私たちはアルゴリズムについてどれくらいのことを知っているだろうか? アルゴリズムに頼ると、機械学習[AIにおける自動学習の仕組み]を盲目的に信頼しなくてはいけなくなるのではないか? こうしたデータドリブンな活動の不平等さに、私は危険な印象を持っている。

 第6章は「娯楽経済」の面からニヒリズム─テクノロジーの関係を掘り下げる。ニーチェによると人は、自分の無力さを補うものとして「小さな喜び」を利用し、人助けを楽しんでいるという。人は、他者に何かを与えることで、相手を自分より下の地位に落とし、施す側として上から目線のいい気分になれるからだ。

 この分析はシェアリング・エコノミー(共有型経済)のテクノロジーにも当てはまり、なぜこれほど多くの人がオンラインで寄付をし、自分の家を人に貸して、見知らぬ人を自分の車に乗せるのかを理解するのに役立つ。キックスターター(Kickstarter)[アメリカの民間営利企業で、クリエイティブなプロジェクトに対して、クラウドファンディングによる資金調達を行う手段を提供している]、エアビーアンドビー(Airbnb)、ウーバー(Uber)といったテクノロジーを、ティンダー(Tinder)[位置情報を使った出会いのサービスを提供するアプリ]などのテクノロジーと比較してみれば、他人を落として自分が上に立つ力学が共通して存在することがわかる。

 娯楽経済が危険なのは、こうしたテクノロジーにはふるいにかける行動がつきものだからだ。こうした行動の際、人は自分の寛大さに酔いながら、残酷な力関係も楽しんでいる。もう少し具体的に言うと、相手が自分の寛大さに見合う相手かどうかを判別して、ふるいにかけるのだ。

 第7章では、「畜群ネットワーキング」と言うべきニヒリズム─テクノロジーの関係を扱う。ニーチェによると、人は「畜群本能」によって人と集まるのだという。そこには数の強みがあり、群れの中に自分を埋没させて、自分自身であり続ける重荷から逃げるチャンスがあるからだ。この洞察をCB無線から絵文字、フェイスブックまでのソーシャルメディア・テクノロジーに当てはめると、ソーシャルネットワーキングがこれほど人気を獲得し、普及している理由がわかるだろう。

 これらのテクノロジーは単なる人々の欲求のはけ口としての機能から発展して、他人との関わり方、そしてその関わることの意味に至るまで、人々の考え方を変えてきた。ソーシャルネットワーキング・プラットフォームでは、ブランドがあたかも人のように行動し、人も自分自身をブランディングする。そこに畜群ネットワーキングの危険性があると私は考えている。そうした場所で私たちは自分のアイデンティティをつくり上げ、フォロワーを獲得してつなぎとめようとする。

 要するに、プラットフォームが誘いかけるニーズに合わせてコンテンツを作成しているのだ。しかもそのフォロワーは、単純にコンテンツに興味があるのか、それとも自分に興味があるのか、私たち自身にもわからない。自分は自分なのか、それともコンテンツなのか、もはやわからなくなっているのだ。

 第8章では、ニヒリズム─テクノロジーの関係がつくり出した世間を見ていく。これを本書では「クリックの狂乱」と呼んでいる。ニーチェは、人とニヒリズムの関係の最後、5番目の「感情の狂乱(放埓)」について、閉じ込められた本能的欲求の暴走、解放、感情の爆発を伴う狂乱的な営みであることから、「罪」だとして最初の4つ[自己催眠、機械的活動、小さな喜び、畜群本能]と区別している。

 というのも、これらは説明責任の重荷を逃れるエクスタシーを体験しようとするもので、あとでツケを払わされる羽目になる逃避だからだという。現代のテクノロジーは、匿名でコメントを投稿できたり、フラッシュモブを形成できたり、マナー警察のような過剰な倫理観の押しつけができたりする機会を提供している。これらは、恍惚を求める衝動に身を委ねる新たな方法だといえる。

 そうなると、人の爆発性向は1人で罪悪感にさいなまれる「自己破壊」を超えて、他者に恥をかかせる「他者破壊」へと向かいかねない。ソーシャルメディアで不心得者を槍玉に上げるハッシュタグに飛びつく連中は、自らも槍玉に上げられる可能性があったり、炎上が逆炎上を招いたりして、それが晒し行為とその反撃につながっていくことがある。たとえば、ネット上の荒らしとフラッシュモブが合体すると、エスカレートしてネットリンチが展開されてしまうことがある。ネットリンチはあまりに毒々しい。詳しくは後述するが、政治のキャンペーンも似たようなものだ。そこにクリックの狂乱の危険性が感じられる。

 ここまでの章で、テクノロジーがいかに人のニヒリスティックな面を引き出し、拡張して、意識の重荷、意思決定の重荷、無力さの重荷、個人であることの重荷、説明責任の重荷を引き受けないようにさせるかを見たことになる。

 これを受けて最終章では、人はニヒリズム─テクノロジーの関係にどのように対応すればいいかを追究していこうと思う。その対応の仕方を探るために、ニーチェの『悦ばしき知識』に登場する、「神は死んだ」と宣言する「狂気の人間」に目を向けてみたい。ここまでで、私たちが創造してきたテクノロジーの世界のニヒリスティックな恥部を理解できたはずだ。それなら、方向を見失い、道筋を見失い、確かなものを見失った狂気の人間の体験もわかるのではないか。

 かつては神が私たちの道しるべとなるキラ星のごとく機能していた。すなわち神の道案内がなくなったとき、私たちは道に迷い、世界が常軌を逸したように感じたのだ。それと同様に、今日はグーグル(Google)が道案内のような役目を果たしている。私たちはグーグル検索に答えを求め、グーグルマップに文字どおりの道案内を求めて、グーグルのディープマインドに自分の苦しみの除去を求める。人は道徳に関することでさえグーグルを参考にする。なぜなら「邪悪になるな」[社員が従うべき行動規範としてグーグルが長年掲げていたスローガン]は間違いなくモーセの十戒より覚えやすいからだ。

 しかしグーグルは、私たちが神を殺して地に埋めたという証拠ではない。以前は神に委ねていた責任を、私たち自身が引き受けた証拠にはならないのだ。そうではなくグーグルは、私たちがまだニヒリズム依存から抜け出せておらず、外部のソースに意味を与えてもらおうとしている証拠だ。

 だから、たとえグーグルが死んでも、次のグーグルを模索するだけだろう。テクノロジーを責めたり、テクノロジーから逃れようとしたり(まるでテクノロジーを追い払えばテクノロジーの影響を追い払えるかのように)するのではなく、自分自身から逃げようとするのをやめ、人であることの意味から逃げようとするのをやめる方法を模索していかなくてはいけない。そのための1つの方法が、受動的ニヒリズムから能動的ニヒリズムへの転換、すなわち「破壊のための破壊」から「創造のための破壊」へと移行することだ。

 受動的ニヒリズムは、人類の進歩をテクノロジーの進歩と同一視し、人類の進歩の目標としてテクノロジーに依存したポストヒューマンになることを追い求めることにつながっていく。だが能動的ニヒリズムは、そうした目標に対して懐疑的なスタンスを取る。そうすることで、進歩に対するこのテクノヒューマンな見方の根底にある、禁欲の価値をあらためて考え直せる可能性がある。

 グーグルが死んでも新たなグーグルを探すだけなら、受動的ニヒリズムが能動的ニヒリズムに転換することはないかもしれない。しかし、ニヒリズム─テクノロジーの関係を追究し続ければ、新しい価値観、新しい目標、「進歩」が意味するべきものに対する新しい見方を得るための、能動的ニヒリズムへのムーブメントを刺激するチャンスが生まれるだろう。

ニヒリズムとテクノロジー

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ニヒリズムとテクノロジー

著者:ノーレン・ガーツ
翻訳:南沢篤花
発売日:2021年8月5日(木)
定価:2,970円(本体2,700円+税10%)

本書について

本書はニーチェの思想に対する新たな解釈を探るものではない。人とテクノロジーの関係について、ニーチェの哲学をヒントに、その優れた批判的視点を養うことを目指したものだ。

 

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この記事の著者

渡部 拓也(ワタナベ タクヤ)

 翔泳社マーケティング課。MarkeZine、CodeZine、EnterpriseZine、Biz/Zine、ほかにて翔泳社の本の紹介記事や著者インタビュー、たまにそれ以外も執筆しています。

※プロフィールは、執筆時点、または直近の記事の寄稿時点での内容です

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https://codezine.jp/article/detail/14582 2021/08/11 07:00

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