イノベーションを起こす難しさ
「エンジニアリングの現場にいながら、イノベーションを生み出せていないことにフラストレーションを抱えていないだろうか」。atama plusでVPoEを務める前田和樹氏は「Developers Summit 2025」の講演の冒頭で会場に呼びかけた。2年ほど前、atama plusに入社した前田氏は「最先端の学習サービスを提供するスタートアップだから、常にイノベーションが起こっているに違いない」と想像していたが、時間もリソースも限られる中でイノベーションを生むのはなかなか難しいと痛感したと語る。

イノベーションは、大きく3つに分類できる。既存製品を継続的に改良し価値を高める「漸進的イノベーション」、新技術を活用して大きな価値の飛躍を生み出す「画期的イノベーション」、そして既存市場の構造そのものを覆す変革をもたらす「破壊的イノベーション」だ。
この3つのうち、事業責任者が好むのは漸進的イノベーションだと前田氏は言う。KPIの達成や事業ロードマップに沿った開発などの考えるべきことが山積みの中で、成功するかどうかも分からない画期的・破壊的イノベーションに人員や予算を割くよりも、確実に価値を積み上げられる漸進的イノベーションにリソースを当てたいというのが本音だ。
だが、エンジニアは画期的・破壊的イノベーションに寄与したいと考えている。生成AIのような、世の中が大きく変わる技術革新に自分が関われないことは、自身の市場価値やキャリアにおいてリスクと感じるからだ。
双方の思惑がすれ違う中で、はたしてイノベーションは起こせるのか。
「弊社のサービス利用者は、タブレットやPCで勉強するのが当たり前のテクノロジーネイティブ世代。世の中で当たり前とされる技術・体験に追従する必要性が大きい。時代に合わせたイノベーティブな進化が強く求められており、それを誰もが理解して焦りを感じていた」(前田氏)
そんなジレンマを抱えながらも昨年、画期的イノベーションと言えるサービスの開発を実現した。それが「AIステップ解説」だ。
生成AI活用でより深い学習を支援する「AIステップ解説」
EdTechスタートアップで教育事業者のatama plusの主力プロダクト、AI教材「atama+」は1問ごとに解答・答え合わせ・解説を行うマイクロステップラーニングを採用したデジタル教材だ。これにAIを組み合わせることで、生徒一人ひとりの得意や苦手を分析し、よりパーソナライズされた学習体験を提供するのが特長だ。すでに全国の塾や予備校で4000教室以上に導入されている。
一人ひとりに合わせた学習、という価値を多くの生徒に届けることができているが、一つの課題を抱えていた。それは“解説”で行き詰まる学生が少なからずいることだ。たとえば数学の問題の解説に利用する公式や式変形があったとき、学習者の習熟度によっては、その意味や理由が分からないこともある。
そこで前田氏たちが開発したのが「AIステップ解説」だ。
AIステップ解説は、生成AIを活用して解説文を意味のある小さな単位(チャンク)に分割して、1つずつ表示。生徒が「理解できた」と返すと次のチャンクへ進み、「理解できなかった」とした場合は理解できなかったと思われる項目を一覧表示し、該当項目を選択すると、さらにかみ砕いた解説が提示される。
「解説を分割し、さらに選択肢を設けることで、学習者が理解できていない箇所を適切に言語化できない場合でも、該当箇所を特定した上で、より詳細な解説を生成することができる」(前田氏)


2024年10月にベータ版としてリリースされた同サービスは、特別なプロモーションを行わなかったにもかかわらず、利用実績は右肩上がりに増加。利用した生徒の75%以上が「解説文の理解が深まった」と回答しており、前田氏も「破壊的とまでは言えないが、画期的なイノベーションを実現できたのではないか」と手応えを感じている。
イノベーションを生むための4つのステップ
では、どのようにイノベーションを進めることができたのか。「当時は、ひたすら前進あるのみでワーッと走り続けた」と振り返る前田氏。しかし、実際には「種を拾う」「有志が集まる」「味方を広げる」「芽にする」という4つのステップを踏んでいたことに気付いたという。

最初のステップは「種を拾う」だ。ハッカソンやアイデアソンを開催してアイデアの種をつくりだすことはもとより、Slackの雑談チャネルには草の根で生まれるアイデアが投稿されることがある。中には、デモ画面を作成したり、同じ課題を持つエンジニアと議論を始めたりする動きもあり、イノベーションの種となる活動が散見された。AIステップ解説の種も、その一つだ。こうした種を見つけるためには、高い感度を持つことが重要と痛感した前田氏は、社内のさまざまな領域の人と積極的に会話を交わし、Slackのチャンネルを日常的に巡回することを習慣化したという。
加えて、技術的な好奇心を持つことも、アイデアを実現する上で不可欠だった。「何かをやりたいと思ったときに、それを実現する手段を持っているかどうかで初速が変わる。新しい技術を取り入れ、実践できる力を養うために、Developers Summitのようなイベントで見識を広めたり、ハッカソンやOSS活動を通じて技術の理解を深めたりと鍛錬精進することは大切だ」。そう話す前田氏は、こうした活動を通じて得た生成AIの知見は、AIステップ解説の開発をスムーズに進めるのに役立ったと振り返る。
「有志が集まる」ステップでは、アイデアを現実のプロダクトへと発展させるために、Slackで散発的に交わされていた議論を形にしようとメンバーを勧誘した。有志活動であり、開発のためのリソースが確保できる保証もなく、ましてやプロダクトとして完成するかも分からない。それでも挑戦してみたいかを確認し、興味を持つメンバーで小規模なチームを作ったという。
「この過程で、プロダクトマネージャー、UXデザイナー、エンジニア、品質管理担当といった開発に必要なメンバーが自然とそろったのはラッキーだった。おかげで最小限の機能を素早く形にすることができた」(前田氏)
続いて、メンバーからの要望を受けて、「何をやるのか」「なぜやるのか」を言語化して方向性を調整。また、Amazonが広めたプラクティスであるPR/FAQという手法を活用して、プロダクトがユーザーに提供する価値を開発する前の段階で整理し、文書化してチームでいつでも参照できるようにした。
ここまでの段階で、課題に挙がったのがチームのモチベーション維持だ。有志での活動は、業務負荷の状況によっては厳しくなる。そこで、無理のないマイルストーンを組みつつも短期決戦で完成させる方針で決定。結果的に、当初のリリース目標より1か月半遅れとなったが、チームの結束や熱量は維持されたまま完成を迎えることができた。
組織全体を巻き込んで味方を作る
だが、ここで終わりではない。プロジェクトを成功に導くためには、単なる有志活動にとどまらず、社内外の支援を得ることが必要だった。そこで、次のステップとして「味方を広げる」取り組みを行った。
まず社内での認知を広げるため、アプリのユーザー体験イベントを開催。社員が実際にプロダクトを試し、フィードバックを共有する機会を設けた。このイベントには30〜40人が参加し、開発への理解が深まるとともに、応援してくれる仲間を増やすことができたという。
続いて、実際のユーザーの意見を取り入れるべく、同社直営塾の生徒を対象に、開発中のプロトタイプを用いたモックインタビューを実施。ユーザーのリアルな反応を収集し、ブラッシュアップを重ねていった。
最後に、経営陣を味方につけるフェーズへと進んだ。プロダクトを正式なサービスとして提供するには、経営レベルでの承認が不可欠だ。そこで、プロダクト責任者を中心に、社内での意思決定を円滑に進めるための準備を行った。具体的には、活動の目的や価値を明確にし、機能紹介やリリースに向けた計画を整理。社内のどのチームとどのような連携を取るべきかを示し、経営陣に伝えた。その結果、当初はビジネスKPIへの影響が不透明だったものの、「有意義な取り組み」として評価され、前向きに調整が進められたと前田氏は述べる。

こうしたステップを経て、「芽にする」段階へと移行した。ベータ版とはいえ、多くの生徒が実際に使うサービスとなるため、ユーザーの声を継続的に反映し、さらなる改善を図った。「嬉しいことに、学生や塾の先生から好評を得ることができ、チーム全員でその成果を実感した」と述べる前田氏は、今後は事業に完全に組み込めるよう取り組んでいきたいとした。
有志活動から始まったイノベーションを今後も継続的に生み出せるよう、「現在の事業に対して、シーズベースの技術探索を通じて価値を提供する組織」として同社はテクノロジー推進室を設立した。これも前田氏たちの努力と経営陣への働きかけの成果だ。
「より発展的な技術展望を着実に検証し、事業に実装していくのがこれからの目標だ」(前田氏)