「春眠暁を覚えず」
「起承転結」はもともとは漢詩の作法です。実際の漢詩で「起承転結」を見てみましょう。学校でたいてい習う、孟浩然(もうこうねん)の「春暁」(しゅんぎょう)を例として取り上げてみます。
孟浩然は中国唐代の代表的な詩人で、8世紀初頭に活躍しました。科挙(今の日本でいえば国家公務員試験のようなもの)に落第して故郷の鹿門山(湖北省襄陽市)に帰り、悠悠自適の暮らしを送っていました。この詩はその頃に書かれたものだといわれています。その襄陽市の平均気温は東京と近くて、春には最低気温は同じくらい、最高気温は東京より高くなります。この詩の「春」は、日本の本州の春と同じくらいの温かさだと思ってよさそうです。また「暁」(あかつき)とは、現代の意味とは違って、夜中過ぎから空が白み始める前までの真っ暗な時間帯を指します。当時の都の役人は、その暁の午前3時頃に出勤していたそうです。
次に、左側に原文、右側に読み下しを示します。
「春暁」 孟浩然
春眠不覚暁 春眠(しゅんみん)、暁を覚えず
処処聞啼鳥 処処(しょしょ)に啼鳥(ていちょう)を聞く
夜来風雨声 夜来(やらい)、風雨の声
花落知多少 花の落つること、知んぬ多少ぞ
ところで、この詩の想定読者はどんな人びとでしょう? 当時、読み書きや詩の素養があるのは、貴族と役人(=科挙に受かった人)、それに科挙を目指す人くらいでした。ということは、当時の読者にとって「暁といえば役人の出勤時刻である」というのは常識だったことになります。孟浩然も、そのように読者を想定していたことでしょう。
すると、次のような解釈ができます。
-
【起】春眠、暁を覚えず
春の眠りは心地よい。夜明け前の出勤時刻を気にしなくていいのでなおさらだ。 -
【承】処処に啼鳥を聞く
そして、寝床にいてもあちこちから鳥の鳴き声が聞こえてくる。すっかり夜が明けたようだ。 -
【転】夜来、風雨の声
ところで、昨夜はしきりに雨と風の音がしていた。 -
【結】花の落つること、知んぬ多少ぞ
だから、花はたくさん落ちただろうなぁ。地には一面の花びら、木にはさえずる小鳥たち。こんなすばらしい春の朝の光景を、寝床でうとうとしながら楽しめるとは!
「起」で、春の朝のことだよと話題を提示するとともに、「出勤時刻を意識せずに眠っているとは何事!?」と読者を引き付けます。
「承」では、まだ寝床にいる「起」を受けて、鳥の声が聞こえるのどかな春の朝の情景を描きます。
「転」では、「起承」の流れを一転させて、のどかな朝の情景を破るような風雨があったことを告げます。
「結」では、雨で花びらが地面に散っただろうことを知らせ、「承」と合わせてすばらしい春の光景が広がっているのだとまとめています。
さきほど辞書で調べたように「起は詩意を起こし、承は起句を承けつぎ、転は一転して別境を開き、結は一編全体の意を結合」していますね。典型的な起承転結になっています。ちなみに、上の解釈に書いたように「承」/「転」/「結」にそれぞれ「そして」/「ところで」/「だから」と接続詞を付けてみると、起承転結が理解しやすいような気がします。
ところで、「春暁」の結論(もっとも伝えたいこと)は何でしょう? 教科書的には「地には一面の花びら、木にはさえずる小鳥たち。こんなすばらしい春の朝の光景!」となるのでしょうが、それでは「起」がまるごと浮いてしまいます。そこで、上の解釈では「寝床でうとうとしながら楽しめるとは!」と付け加えてみました。それでもまだタイトルの「暁」(夜明け前の暗い時間)が浮いています。歌われている光景は夜が明けているのに、タイトルは夜明け前なんです。そこでもう一歩踏み込んで考えてみると、「夜明け前からアクセク働いたりしないオレサマの『春眠暁を覚えず』な生活ってイイだろ!」と言っているように思えてきます。そうだとすると、結論は「起」(春眠暁を覚えず)にあったことになりますね。
文系の学問は教科書が当てにならない
「え? そんな解釈、学校じゃ習わなかったよ」と思った読者も多いでしょう。でも、文学や歴史などでは、作品や事件などに対する解釈がたいていは複数出されています。定説(学者の意見が一致していること)が確立している方が少ないと思えるくらいです。教科書は、たくさんある解釈の中から無理矢理ひとつを選び出して載せているんです。
今回の「春暁」の解釈は、以下を参考にしました。
- 「春眠暁を覚えず」をめぐって(同志社女子大学 教授 吉海直人、2015/4/15)
- 「春眠暁を覚えず」は国家への反骨の詩だった?(KIT虎ノ門大学院 教授 三谷宏治、2017/4/27)
- 孟浩然「春暁」――漢文教材としての可能性(千葉大学 教授 加藤敏、2006)
- 国語教科書における漢詩「春暁」をめぐって(東海学園大学 教授 松尾肇子、2017)