著者の基調講演を聴いたときの「興奮」が翻訳のきっかけ
――なぜ今、この本を出そうと思われたのでしょうか。本書に注目し、翻訳を思い立った動機を教えてください。
2014年のAgile Singapore 2014で、著者リチャード・シェリダンの基調講演を聴きました。夢のような会社を作ってきて、本当に実現して、すごいことをやっているという話でした。聞きながら、「これはまさしくXP(エクストリーム・プログラミング)そのものだぞ」と思ったんです。手元のメモには「紙を折りたたんで計画ゲームをする」「休暇中は仕事のメールを見ない」「週40時間」「インタビューでは一緒に働く」なんて書いてあります。
講演ではこうした内容を本に書いたと言っていて、その場で「訳したいなあ」と思いました。私がアジャイルなソフトウェア開発に踏みこんだのは、XPからです。今でもXPが好きですが、実践はあまりできずに来てしまいました。それをやってのけた話だと、興奮しました。
――「喜び」など、センシティブな表現が数多く出てくる本書ですが、訳すに当たって悩んだところ、困ったところなどはありますか? 翻訳時の苦労話、エピソードなどがあれば教えてください。
この本を訳すことになったとき、著者である“リッチ(リチャード・シェリダン)の声”を届けたいと思いました。うまくいったことは楽しげに、苦心や苦労話も明るく、決して押しつけたりせずに、自分の話がなにか役に立てばいいというつもりで、熱心に話す声です。本人は堂々とした雰囲気ながら、気さくな人です。この本を読みながら、「彼から直接話しかけられているような気持ち」になってほしいと考え、訳文でも文体や言葉遣い、リズムを意識しています。単調な教科書や、上から目線の成功談のようには、したくありませんでした。
訳語を選ぶのにもエネルギーを使っています。訳者が5人もいて、たくさんのレビュアーに積極的に参加していただいたおかげで、いちいち議論沸騰してなかなか決まらなかったです。例えば、本書の中で何度か登場する“Show & Tell”という言葉があります。開発者とクライアントが一緒に参加し、1週間分の成果を見せて(show)、それを話す(tell)というイベントです。いろいろな案が出ました。「見せて伝える」「発表会」「見てから言う」「ショウ&テル」「ノブ&フッキーみたい」「見て語る、略してミテカタ」 「ショー&テルでいいんじゃ」「いやショウがいい。ほら(と言って下の画像をシェアする)」
ショウの「ウ」にこだわったのは私です。目にとまって頭に残りやすい、妥当な訳語だと内心自慢なんですが、出版後も「コンビ名っぽい」という声がちらほら聞こえてきてビシビシと心に刺さっています。
本書は、「アジャイルに興味がない人」にこそ読んでほしい
――本書は一般のアジャイル開発の書籍とは一線を画すと思いますが、従来のアジャイル開発関連の書籍とこの本はどう違うのでしょうか。
まず、本書は「アジャイルの書籍」ではありません。なぜなら、「アジャイル」という言葉がいちども出てこないからです。これは原文でも同じです。
一方で本書は類を見ない、「アジャイルのこころ」をまっすぐ現した書籍です。リッチの語るたくさんのことがら、「素早くたくさん失敗しよう」「強いビジョンを持ち、全員と共有すべき」「誰もがリーダーであり、説明責任を持てる」「顧客と一緒にプロジェクトのかじ取りをする」「誰でも、何でも学べる」――こうした言葉はいずれも、アジャイルの深い根っこと相通じています。本書はアジャイルの本当に大切なところを指し示す、アジャイルな態度ですべてに臨む、生きたアジャイルの物語です。多くのアジャイル関連書籍が、そうした大切なメッセージを控えめに呟くだけで、ルールだとか、プラクティスだとか、困ったときのノウハウだとかに紙幅を割いているのとは(もちろんそれも大事なんですけれど)、一線を画しています。
――本書は、特にどんな方々に手に取ってほしいと思いますか? また、その理由は何ですか?
前の回答の続きになりますが、アジャイルという言葉から遠い、興味がない人に読んでもらえたらいいなと思っています。「アジャイルが嫌いな人は読んでください」って言いたいんです。それじゃあ誰も読んでくれやしないと思いますけど。でも「アジャイル」という言葉が出てこないので、うまくそういう人に渡せるといいかもしれないですね。
喜びとアジャイルは「表裏一体」?
――(本書で言う)「喜び」と「アジャイル」の関係は?
「喜び」って、人間の話じゃないですか。ソフトウェアにも、コンピューターにも、UIにもサービスにもビジネスにも経営にも喜びはなくて、そこに人がいるから喜びがある。しかもナマの人間、心を持った、1人の完全な人間の話です。ソフトウェア開発の業界において、人間という要素は大事なんだぞと鬨(とき)の声を上げたのが、2001年のアジャイルマニフェストでした。関わる人すべてに喜びをもたらすという考え方と、アジャイルとは、表裏一体だと思います。
――本書には、現場に役立つ経営手法も数多く掲載されています。安井さんが特に注目した手法、「面白いな」と感じた手法はなんでしょうか?(日本の現場で活かせそうな部分など)
ペアプログラミングでしょうか。と言っても、メンロー社ではプログラミングに限っていないので、ペアワーク、ペア作業のことですね。ペア作業って、得てして「初心者がベテランに教わる」だけの、OJTの一部みたいな扱いを受けがちです。本書は、そうではないとハッキリ示しています。学びの効果だけでも、初心者に限らずベテランだって必ずパートナーから学べることがある。新たな専門スキルを身に付けることだってできる。アウトプットも責任感も、仕事の喜びだって優れている。
そして組織レベルで見たときには、リスク対策の根幹の1つとなっています。「知識の塔」と呼ばれる、「この人じゃないとできない! いなくなったら困る!」という状況を、ペア作業を通じて常に解消し続けているのです。さらには要員追加も引き継ぎも、自然とできてしまう。そのために、1週間ペアを固定して、解消後も同じ相手とはしばらくペアを組まないという工夫には感心しました。ペア作業からの学びと、効果的に成果を生み出す力とのバランスも良さそうです。
リッチがときどき、メンロー全体を指して「チーム」と呼んでいるのが印象的です。ほとんどの人が、ほとんどの人とペア作業をしたことがある。だからこそ社員全員が1つのチームと感じられるのでしょう。