"けしからんいたずら"を促進する人材育成と教育環境の再構築
登氏は、「日本が誇るコンピュータ技術の基盤を支えてきた先人たちは、大学の研究室や自宅といった小さなスペース、あるいは会社や役所の机の下を使い、コソコソと勉強してきた」と指摘する。しかし、これは小規模だからこそできたことであり、現在求められる技術基盤は大きく様変わりしている。例えば、大規模なネットワークの構築や膨大なデータ処理、AI処理を行うことができる基盤を構築するためには、AmazonやGoogleのクラウドシステムのようなインフラを動かすシステムソフトウェア群に関する技術研究が不可欠で、そのためには複数台のサーバーやネットワーク、GPUなどの機器をひんぱんにつなぎ替えてさまざまな試行錯誤を行う必要があるが、個人や家庭では、物理的な空間が狭く、騒音や電力容量の問題もあることから、その設備を備えきれない。
こうした基盤を実現するためには人材育成が欠かせないが、そのためには組織内に「試行錯誤の場」を設ける必要がある。登氏はGoogleやAmazon、Microsoftのようなテック企業を例に挙げ、「これらの企業の競争力の源泉は、会社が充実した物理的な実験環境を提供している点だ。これらの企業の社員たちは、他社や他国のクラウドシステムに頼ることなく、社内で物理的にサーバーやネットワーク、GPUなどを用いて大規模システムを構築しようとし、その過程で必要なソフトウェア群を自ら開発している。日本も同様に、社員が自由に試行錯誤し、システムを構築・拡張できるよう、コンピュータやネットワーク、GPUなどを置くことができる物理的なスペースを整えるべきだ」と分析する。それをしばらく続けることで、新たな基盤技術が形成され、製品化が可能となり、それの母体となった企業は、プラットフォーマーとして、全世界から豊富な利益が得られるようになるというわけである。
例えばMicrosoft Azureも、最初は計画的に作られたものではなかった。Microsoftは、1990年代に「.NET Passport」という独自のID基盤を試作し、その頃買収したHotmail(現Microsoft Outlook)やMSN メッセンジャーなどの個人向けの遊び道具を組み合わせながら改良を重ね、結果的にOffice 365(現Microsoft 365)やOneDriveといったエコシステムが完成した。また、これらのサーバーサイドのシステムを動かす仮想化関連技術も、
Microsoftは社内で社員たちが独自に開発してきた。これが今の同社のクラウドサービスになっている。日本で数少ない有力なクラウド事業者であるさくらインターネット社の発展にも、同様の歴史がある。登氏は「こうした遊びの延長から世界的なクラウド基盤が生まれたことこそ、試行錯誤の環境がもたらす力だ」と言及する。
さらに登氏は、日本のITインフラが抱えるもう一つの課題として「他国のクラウド基盤への依存」を挙げる。大企業やインフラ事業者、行政機関に至るまで、日本の多くのコンピュータ基盤が米国のクラウドに依存している。一方で他のほとんどの先進国では、自国基盤の整備が進められており、特に機微情報を扱う部分については自国の技術基盤や事業者に頼る流れだ。「日本も同様に、企業や組織が自社内で基盤を整備できるよう、まずは技術者が基礎を固める必要がある」と強調した。
この基盤整備においても、"けしからん遊び心"が重要であるという。登氏は自身の経験として、かつてSoftEther VPNを開発し、検閲を回避するためのVPNGateプロジェクトを開始したことを挙げた。このシステムは現在600万以上のユーザーを抱え、中国やイラン、ロシアなどの検閲下にある国々で広く利用され、それらの国民が学習や研究のためにWikipediaやFacebookなどへ自由にアクセスすることを保障している。新聞にも取り上げられたが、登氏によれば「遊び心から生まれた一例」に過ぎないというから驚きだ。
「このような、自作システムを作ろうとするはたらきは、非常に文化的なものだ」と登氏は強調する。しかし、かつて当たり前だった自作文化は、手軽な外国製クラウド基盤の登場で一時期衰退し、日本では、米国のクラウドを借りる流れが主流になってしまった。これにより、米国や中国などの先進国と圧倒的な競争力の差がついてしまった。これに気付いた日本のさまざまな組織における近年のトレンドは、再び自社内で環境を整え、企業や大学などの組織が「試行錯誤の場」を設けることだという。
また登氏は、人材育成には環境が不可欠であり、環境を保つためには技術者が必要な「鶏と卵の関係」にあるとも指摘する。組織内での試行錯誤が増えれば、さまざまなインシデントが発生し、技術者は問題解決を通じて成長する。その過程で、堅牢なシステム技術が生まれ、世界中のユーザーが利用しても安定したクラウド基盤が確立できるという。登氏は「こうした実地経験を重ねれば、日本も5年から10年後には世界トップレベルに戻れる」と期待感を示した。
さらに登氏は、アメリカのテック企業と日本の違いにも触れる。GoogleやAmazon、Microsoftなどは、単一の主体が、コンピュータ技術と通信技術の双方に精通し統合している点に特徴がある。これが、強力な基盤を実現できる秘訣である。一方で日本は、コンピュータ企業と通信企業が別々であることが多く、単一の技術者や経営者が両方を理解していることは稀であり、相互理解も浅いため、技術的な統合が進みにくい。この点について登氏は、「日本も、もっとコンピュータ好きが自ら電話局に入り、光ファイバーや通信機器を借りて自分たちで通信システムを構築するぐらいのことをやるべきだ」と強調。「コンピュータ技術者が通信事業の根幹部分を自ら構築するプロセスこそが、強い競争力の源泉となる技術力を生む」と語った。