危機感を糧に、憧れのSun Microsystemsへ転職するも……
大学進学を機に上京したものの、「1〜2年生のころはとにかく遊んでいた。プログラミングもそんなに楽しいと思っていなかった」と振り返る寺田氏。しかし3年生で「このままではまずい」と危機感を覚えたという。
「自分は今完全に底辺にいる、だからこそ少なくとも人並みにコンピュータを触れるようになって卒業をしたいと思い勉強するようになりました。ただ、不思議な物でいざやり始めると、やればやる程自分が分かっていないこと、自分ができない事にさらに気付き、それまで以上に非常に強い危機感と不安を抱くようになりました」(寺田氏)
そこで、朝起きてから寝るまでひたすらコンピューターのことを調べ、交友関係も断って必死に学ぶようになったという。
寺田氏が「勉強の邪魔になる」とテレビを捨てて学習に打ち込み始めたタイミングは、世間一般にインターネットが広まり始めたタイミングに重なる。寺田氏がライフワークとしているJavaもこのころ登場しており、「面白いことがどんどん起き始めていた時期だった」と懐かしんだ。
その後進学した大学院では筑波の産総研に約2年通い、その後は2年ほど日系企業に勤務。「UnixやJavaができるエンジニアだったので、1年目からさまざまな経験を積めた」と振り返るが、UnixやJavaで活躍したいという思いが高まり、Sun Microsystemsという外資系企業に転職を果たす。
このSun Microsystemsは2010年にOracleと統合したため現存しないが、「新しいテクノロジーをどんどんローンチする当時の最先端企業で、Unixの神様と呼ばれるビル・ジョイや、Javaを作ったエンジニアであるジェームス・ゴスリンが所属していた。当時の私のようなエンジニアにとってはあこがれの会社だった」。
憧れの企業に入社したものの、周囲のレベルは寺田氏の予想以上に高かった。5年以上UnixやJavaの実務経験を積んでいた寺田氏だが、「私が”できない”エンジニアの部類に入るぐらい周りに仕事のできるエンジニアが多く、入社当時は全く期待されていなかった」というから驚きだ。
「ひとりの無名なエンジニア」を社外の人に知ってもらうために
ターニングポイントとなったのは、「GlassFish」というAPサーバ製品だ。最初は社内でも知名度の低い製品だったが、実際に触って価値を見出した寺田氏はこの製品を周知することを決意。GlassFishのテックブログを書きはじめ、自分の知っている情報やそれまで学んだ知識をひたすらブログに記していった。
「当時はエヴァンジェリストとかAdvocateという肩書きを全く持っていない、1人の無名なエンジニアだった」と思い返す寺田氏。ところが、ブログを書くうちに社外からの閲覧数が増え、打ち合わせに同席したときに「ブログを書いている寺田さんですか」と声をかけられるようになった。それを受けて社内からも推薦が集まり、エヴァンジェリストグループへ参加することになった。
一連の出来事を振り返り、寺田氏はこう勧める。「チャンスはちゃんと頑張っている人のところにやってくるので、ブログやYouTube、SNSなど何でもいいので自分がやっていることを外にアピールするべき。そういうことをやっていけば、どんどん周りが自分のことを見てくれるようになると思う」。