安野氏の都知事選への挑戦とその背景
安野貴博氏は、AIエンジニア、起業家、そしてSF作家として活動する人物だ。ソフトウェアエンジニアとして自然言語処理分野のスタートアップを2社創業し、AIチャットボットやリーガルテックを軸にした事業に携わった後、創作活動にも注力。AIや自動運転といった先端技術を題材にしたフィクション作品を発表してきた。代表作には、AIエージェント起業を描いた『松岡まどか、起業します』、完全自動運転社会を舞台にしたテロ事件を追う『サーキット・スイッチャー』、そしてテクノロジーが社会をどう変えるかを問うノンフィクション『1%の革命』がある。
本セッションは、ウルシステムズ株式会社(現 ULSコンサルティング株式会社) 代表取締役会長・漆原茂氏との対談形式で進行。過去、2018年に翔泳社が開催した若手エンジニア向けカンファレンス「Developers Boost」への登壇経験もある安野氏が、自身の都知事選へのチャレンジを「エクストリームなDXの一例」と表現し、その全容を語った。
もともと無名だった安野氏が、なぜあえて都知事選に立候補したのか。その原点は、妻との何気ない会話にあった。ある日、選挙期間中に散歩をしていたときのこと。安野氏は妻に、「300年前と同じ政治・選挙の仕組みが続いているのはおかしい、変革の余地がある」と強く主張した。それを聞いた妻は「そんなに言うなら自分でやればいい」。その促しが決定打となった。
選挙制度の見直しは、かねてから安野氏の関心の的だった。日本社会のアップデートの一環として、選挙システムを刷新できるのではないか——そんな問題意識が、安野氏を都知事選出馬へと駆り立てた。都知事選への出馬は、抱いていた構想を試す格好の機会だったのだ。
選挙準備を始めたのは、投票日のわずか1.5カ月前。通常18カ月程度を要する準備期間を大幅に下回る、驚きの超・短期決戦だ。
この“エクストリームなDX”を可能にしたのは、アジャイル的な発想と、高い実行力に他ならない。何しろ、通常の10分の1以下の時間で同様の準備をこなす必要があるわけだから、「10倍の生産性を出す必要があった」(安野氏)。短期間で体制を整えるべく、過去にスタートアップを共に立ち上げたエンジニア仲間や信頼するコンサルタントたちに声をかけ、選挙プロジェクトチームを構築した。
「友人に1年ぶりに会って、『都知事選出るんだけど手伝ってくれる?』と頼んだら、本当に来てくれた。ありがたいことだ」と、安野氏は当時を笑顔で振り返る。
結果は、1.5カ月という極限の準備期間でありながら、無名の立場から15万票を獲得するという快挙を成し遂げた。これは都民の約1%に相当する票数である。当選者である小池百合子氏の得票数には遠く及ばなかったが、歴代都知事選において30代の候補として最多得票、かつ議員経験・政党支援ゼロの候補者としても過去最高得票を記録した。孤立無援の挑戦としては異例の成果と言っていいだろう。
安野氏はこの結果を「意味のある数字だった」と評価する。著書『1%の革命』のタイトルにも通じるように、「社会の1%が動けば、変革は起こせる」という信念が、都知事選を通じて具体的な形を得た瞬間だった。
無名での出馬、しかも都知事選という大舞台。初期の街頭演説は、安野氏自身が「最初は知り合い5人が並んでいるだけの世界だった」と述懐するように、まさに孤独との戦いだった。渋谷のど真ん中で突然スピーカーを持ち始めた場面では、通行人からの冷ややかな視線にも晒されたという。それでも数回繰り返すうちに慣れ、徐々に周囲の反応が変わっていくのを肌で感じた。「最後は有楽町駅前に1000人ほどが集まる規模になった」と、当時の手応えを語る。
なぜ、短期間でこれほどの支持を集めることができたのか。鍵を握ったのは、従来の選挙手法とは一線を画す「双方向の選挙」である。安野氏は、自身が得意とする生成AIなどのテクノロジーを活用し、有権者の声を集め、それを政策に反映するという独自のアプローチを構築した。
「従来の選挙は、候補者が自らの主張を一方的に伝える『ブロードキャスト型』が主流だった。それに対して私が採用したのは、民意を広く傾聴し、要約・集約して政策へと昇華する『ブロードリスニング型』の手法だ」(安野氏)。ブロードリスニング型の実現にあたっては、交錯する多様な意見の中からノイズを除き、本質的な要望を抽出するため、AIによって情報を「ダイジェスト」するプロセスを構築したという。
この発想の根底には、大規模言語モデル(LLM)によって「一人の脳に多くの人の考えを統合する」可能性が見えてきたという背景がある。単に大量の意見を受け入れるのではなく、意義ある形で再構成し、選挙プロセスそのものをアップデートしようと試みた形だ。
具体的には、「聴く」「磨く」「伝える」の3ステップからなる仕組みを設計。これは安野氏が出馬初期から構想していたものであり、台湾のデジタル担当政務委員・オードリー・タン氏にも共有していたという。
「こうした仕組みは、選挙の枠にとどまらず、行政運営にも応用可能ではないか。アジャイル的なやり方が行政にも効くはずだ」。安野氏はそう仮説を立て、テクノロジーによって政治プロセスを根底から変革するアプローチに挑んだ。
