村井教授が語るインターネット誕生秘話
一般に、現在のインターネット誕生が語られるとき、米国DARPA(国防高等研究計画局)の資金提供を受けて1960年代後半に開発された「ARPANET」を起源とし、最初は米国の大学や研究機関から利用が広まり、1980年代末から1990年代にかけて一般向けの商用利用が開始された、ということになるだろう。
村井教授は1970年代に、米カリフォルニア大学バークレー校で「BSD」の開発に参加していた。BSDは、米ベル研究所が開発したUNIX Edition 6のソースコードライセンスを取得して開発が進められたUNIXシステムである。当時、BSD開発に参加していたのは、ビル・ジョイ氏(viやCシェルを開発。米サン・マイクロシステムズ創業に参加)やエリック・シュミット氏(米グーグルの現会長)など。全員がケン・トンプソン氏(UNIXのオリジナル開発者であり、C言語の元となるB言語を開発)によるOSの講義を受けていた。つまり、「BSDを作っていたのは1954年か1955年生まれの、同い年の連中」(村井教授)であった。村井教授は1955年生まれである。
BSD UNIXが実装されたのは、米ディジタル・イクイップメント・コーポレーション(DEC)の名作ミニコンピュータ「VAX-11」であった。OSとして「VMS」が搭載されていたのだが、村井教授たちは、これをこっそりBSDに差し替えてしまった。「悪いことをしている感じが楽しかった」と村井教授は当時を振り返る。また、BSDはベル研究所のUNIXより緩いライセンスで配布されたため、「まともな大学ならVAX-11はBSDで動かしていた、というのは言いすぎだが、それくらいBSDの普及には勢いがあった」(村井教授)のだという。
そしてこのことが、TCP/IPにより世界中の大学・研究機関にあるVAX-11がインターネットで接続される土壌となった。
当時はまだ「(OSI参照モデルの)7階層はこの順番でいいのか」といった、基礎的なことで議論が交わされていた時期。プロトコルもXEROXのものが主流で、TCP/IPは実用段階になかったようだ。しかし、ビル・ジョイ氏はBSDにTCP/IPを組み込むことを決断。「この段階でTCP/IPを決め打ちなのか?」(村井教授)というほど、一見無謀ともいえる決断であったが、これにより、世界中の大学や研究機関にあるVAX-11が、あっという間にネットワークでつながってしまった。
「あまり多くの人が言ってくれないけれども、インターネットの始まりは、VAX-11に入っていたBSDがバージョンアップしたときに、自動的にTCP/IPが入ってきちゃったこと。これが実態です」(村井教授)
「全部タダになることを前提に考えましょう」
インターネット誕生秘話の後、村井教授は未来に向けた提言を行った。
「ITに詳しくない人には、ざっくり『コンピュータ機器はタダになると思ってください。全部タダになったらどうなるか、ということで考えましょう』と説明している。それらが無限に出力するデータが、グローバルにシェアされ、交換されるようになる。いわばインターネット前提社会。皆さんも、日々これを作っているんだと意識すると楽しくなるはず」(村井教授)
一方で、インターネットを通じ、モノの生産を一般に解放してしまうDigiFab(デジファブ)や3Dプリンタに恐怖を感じる人が多いという。理由として村井教授が挙げたのは、まずモノが限りなくタダに近づいてしまうから。材料を揃え、設計図に当たるデータをダウンロードすれば、電子レンジで料理を作る感覚で、モノを作ることが可能だ。
また、「たとえば楽器を1つ作る場合、デザインがネット上で流通すれば、楽器を作る部品と材料を現地で調達し、そこで作ってしまえる」(村井教授)ため、流通が不要になり、関税も通らずに済むようになる。
このようにして作られたモノが人を傷つけた場合に適用する法律(PL法)の整備など課題はあるが、村井教授は「こうしたことが、Webのアーキテクチャの中で行われるようになる。革命的な出来事」とし、会場やライブ配信で講演を聴く開発者やデザイナーに、未来を見据えて活動することを促した。
この後、講演は村井教授がこれまで交流してきた著名なコンピュータ技術者へと話題が移った。話に登場したのは、インターネットの父と呼ばれるヴィント・サーフ氏や、C言語の開発者であるデニス・リッチー氏をはじめ、BSD開発者のビル・ジョイ氏、ハイパーテキストの概念を考案したテッド・ネルソン氏、Webの考案者であるティム・バーナーズ・リー氏など。
リッチー氏は、村井教授の講演をきっかけに、1年をかけてビットマップ画面に“かな”と“漢字”を表示させ、村井教授に見せたことがあったという。「デニスに、1年間もこんなことをさせてしまった自分は罪深いと思ったのと同時に、それに誰も文句を言わないベル研を見て、ノーベル賞受賞者を出すような研究所とはそういうところだなと感じた」(村井教授)
そのほか、一番仲が良いというビル・ジョイ氏とのエピソードとして、「振られちゃった」と電話してきた同氏を成田空港まで迎えに行った話などが語られ、村井教授の講演は最後まで会場を笑いで包み込んでいた。