株式会社ユビキタスエンターテインメント(UE)の代表・清水亮氏は天才プログラマーだ。ここでいう天才プログラマーは俗称ではない。経済産業省による「未踏スーパークリエイター/天才プログラマー認定制度」によって国から承認された、まさに本物の天才プログラマーなのだ。携帯業界で活躍する新進気鋭の才能が、起業した理由から国内携帯業界の問題点、そしてその将来までを語った。
僕が独立した理由
編集部
清水さんは元々
ドワンゴに勤めていて、iモードの黎明期から携帯コンテンツ業界に関わっていたと聞きました。ですが、ドワンゴが急成長し始めたときにあえて独立されたのはなぜでしょうか?
清水
僕は携帯コンテンツのゲームやテクノロジー部分を作っていた人間なのですが、当時、ドワンゴは着メロ事業にシフトし始めていたんです。それは、ゲームを作っている僕のような人間にとっては方向性の違う事でした。そこで会社を離れ、別の道を探そうと思ったのです。
ユビキタスエンターテインメント社長 清水亮氏
編集部
それは何歳のときになるんですか?
清水
25歳ですね。とはいえ、転職しようにもいきなりライバル会社に移るわけにもいかない。じゃあ、いっそアメリカに行ってみるかということで、米DWANGO North America社に行ったんです。コンテンツ担当副社長ということで。
編集部
いきなり副社長というのはすごいですね。
清水
いえ、副社長といっても僕を含めて4名しかいなくて、僕以外は会長と社長と上級副社長。だから副社長の僕が一番下っ端なんです。向こうは課長とか部長がなくて、平社員の上は副社長になっちゃいますから。
編集部
アメリカにはどれぐらいいたんですか?
清水
それが半年ぐらいで戻って来ることになりました。向こうの会社がのんびりとした雰囲気だったので、全然やることがなくて。一応、日本のドワンゴの仕事も少しだけ手伝っていたんですが、さすがにこれではダメ人間になると思って帰国しました。
編集部
帰国してからすぐに会社を設立したんですか?
清水
いえ。帰国してからは実家のある新潟に帰りました。なんか、田舎で健気に仕事するのもいいかなと思って。マイクロソフトがあるレドモンドだって田舎ですしね。薪割りながら仕事してやろうと。
ところが地元には仕事がないんです。探せばあるのかもしれませんが、今まで東京の人間とばかり仕事してたので、東京の人と仕事するやり方しか知らなくて。そんなときに僕の知り合いの方が「清水君、東京に来て一緒に会社やろうよ」って言ってくれたんです。「お金ならなんとかするから」と言われて、お金の心配がいらないなら会社でもやろうかなと思って東京に行ったんです。が、そのお金がなんともならず。
編集部
資金の都合がつかなかったと。
清水
ええ。まるっきり当てが外れました。ただ、昔から知っている人達が仕事をくれたおかげでなんとか無事に会社を興すことはできました。それが4年前ですね。
編集部
会社経営はすぐにうまくいったんでしょうか?
清水
いや、もう全然ダメで。携帯コンテンツやゲーム機の仕事をしていたんですけど、これはなかなかお金にならないんです。当時住んでいた住宅の家賃すら払えない状態で、親にお金を借りる相談を持ちかける始末でした。日々の生活のために必死に仕事をしながら、でも良い方向にはいかなくて、僕は窮々としながら生きていくしかないんだろうなと思っていました。
運命を変えた夜
清水
そんなときに、僕がドワンゴで働いていたときに知り合っていた安達真君(現在、
有限会社グルコース代表。RSSリーダー「
goo RSSリーダー」を作った実績を持つ)から連絡があったんです。僕が彼と初めてドワンゴで出会った時、彼は中学生ぐらいだったんですが、ドワンゴに来てサーバを設計するアルバイトをしていました。
編集部
中学生がサーバ設計ですか?
清水
そうです。中学生がドワンゴの社内で働いていたというと驚かれると思いますが、まさに神童のような中学生だったんです。で、その彼から数年ぶりに連絡がありまして、ソフトドリンクという会合に連れて行かれたんです。ここでいろいろな方にお会いしました。
株式会社サルガッソーの鈴木健さんとか、
インフォテリアUSA社長の江島健太郎さんだとか、
株式会社アプレッソの小野和俊さんとかです。彼らは皆、僕と同世代でした。
編集部注
ソフトドリンクとは、鈴木健氏が主催する会合の名称。
編集部
みなさん、活躍されている方達ばかりですね。
清水
僕はこれまで同世代の社長に会ったことなかったんですよ。その会合で初めて同世代の社長に会えた。そこで、彼らが話していることにすごい衝撃を受けたんです。
強烈なカルチャーショック
編集部
どんなことを話していたんですか?